国家鮟鱇
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/mobile?date=20110201§ion=1296534847
▽同性愛と伝統
去年の末頃いから「日本は同性愛に寛容だった」といった類の記事を多く見かける。
⇒石原都知事は歴史や伝統を知らないのか − JanJanBlog
⇒ゲイのテレビ出演は何でダメ? 教えてください、石原都知事 - ZAK×SPA! - ZAKZAK
⇒同性愛の日本史【前編】 かつて、美少年は神の化身と崇められていたのです | Gay Life Japan(これは去年1月の記事だけど)
⇒もみあげチャ〜シュ〜 : 信長は付き人の森蘭丸とホモセックスしまくってたんだけどどう思う? - ライブドアブログ
そして、この手の主張は多くの人の支持を集めやすい。
しかし、俺はこの手の主張に大いに違和感を抱いている。「作られた伝統」という最近流行の主張であり、同性愛を肯定するという「正義」に裏付けられているから受け入れられやすいのだと思うけれど、それで良いものだろうか?
この手の主張には「史実」ではないと思われるものが含まれている。
等というと、「お前は同性愛に嫌悪感を抱いているからそういうことを言うんだ」みたいなことをいわれる(実際某所で言われた)。
そんなことは一言もいっていないのに、そう決め付けるということ自体が、この手のことを支持する人の危うさを象徴している。
こういうレッテル貼りをされる可能性が高いから違和感を持つ人でもなかなか批判しにくいということはあるだろう。
また知識不足から違和感を持っても批判するほどの能力を持ち合わせていないから批判しないということもあるだろう。
俺も日本の同性愛の歴史についてそんなに知識があるわけではない。
しかし、織田信長と森蘭丸に性的関係があったなどという史料は知らないし、前田利家との関係も同様だ。
他の例だって自分で確認することは容易ではない。
信長について怪しげなことを言っているのだから、それらの例も素直に信じることはできない(疑えばきりがないけれど武田信玄についてだって、「春日源助」は高坂昌信のことと考えられていたが異説がでてきて何者かわからない。
「源助」だから男だとは限らないですよね)。
また、ヤマトタケルとクマソタケルの例を持ち出しているところもあって、これも良く見かける話だけれど、俺にはトンデモにしか見えない。
それに「寛容」とはどういうことを指すのかも定まっていないように思われる。
過去に同性愛が行われていたから寛容だといえるだろうか?
同性愛を徹底的に弾圧するというケースを考えれば「寛容」だったといえるのかもしれない。
しかし「正常・異常」という観点から見たときには果してどうか?
昨今問題になっているのはまさにこの点の方だと思われるが、単に過去も同性愛があったというだけでは、その答にはなっていない。
例えば遊里に通うことは「悪所通い」と呼ばれていた。
「悪所通い」が肯定的な意味だとは思えない。
異性との交渉でもこうなのだから、そういう意味での同性愛が肯定的だったとは思えない。
ただし「悪所通い」は「悪」であっても多くの人が普通にやっていた。
では、同性愛はどうか?
などなど考えるべきことはいっぱいある。
当時の人が同性愛に対してどう考えていたのかは余程慎重に検討しなければならないだろう。
同性愛にとって都合の良い(と思っているのだろう。俺はそう思わないが)主張を安易に支持するというのは、いわゆるひとつの「歴史修正主義」というものではないのだろうか?
(しかも、その自覚は全く無いように見えるどころか、逆にそれに反する言説を「作られた伝統」として批判しているのだから問題は深刻だ)
▽同性愛と伝統(その2)
続きを書こうと思ったんだけれど、いつもの調子で空想を交えて書くと、事が事だけに面倒なことになりかねないので躊躇する。
ただ、今流行の「日本は伝統的に同性愛に寛容だった」論は、結論ありきでろくな検証がなされていないと感じるということだけは強調しておきたい(それが学者の研究であっても怪しげなのはある)。
もっと本格的な研究が広くなされることを望む。
それと、これらの主張で紹介されている事例は全て「男の同性愛」だ。
これをもって「日本は伝統的に同性愛に寛容だった」として、現代の問題に繋げることができるのだろうか?
「男の同性愛」も同性愛に違いないだろうけれど、個人的には「男性愛」と呼ぶべきものではないかとも思う。
すなわち同性愛と異性愛で区切るよりも「男が男を愛する・女が男を愛する」と「女が女を愛する」で区切るべきものなのかもしれないと思うのだ。
仏教には変成男子という思想がある。
古来、女子(女性)は成仏することか非常に難しいとされ、いったん男子(男性)に成ることで、成仏することができるようになるとした思想。
⇒変成男子 - Wikipedia
女は転生によりランクアップして男になる。
すなわち男の方が尊いということだ。
とすれば女を愛するより男を愛する方が尊い行為ということになるだろう。
あくまで俺の空想であって、そういう学説があるのかは知らないけれど、もしかしたら「日本は伝統的に同性愛に寛容だった」というのは女性蔑視と一体になっているかもしれない。
そういうところまで想像力を働かせる必要があるのではないか(インドのカースト制にも通じるし)。
あと、「好色一代男」だとか「東海道中膝栗毛」などを例に、同性愛に寛容だったというのはどうなんでしょうね?
もちろん当時の世相を反映していることは間違いないんだろうけれど。
この問題が頻繁に取り上げられるようになったのは、話の流れとして東京都の表現規制が絡んでいるように思うんだけれど、作り話であるこれらの事例を基にして現実を論じると言うのは、現実と創作を混同しているという点で、本末転倒なんじゃなかろうかという気がしなくもない。
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/mobile?date=20110201§ion=1296534847
▽同性愛と伝統
去年の末頃いから「日本は同性愛に寛容だった」といった類の記事を多く見かける。
⇒石原都知事は歴史や伝統を知らないのか − JanJanBlog
⇒ゲイのテレビ出演は何でダメ? 教えてください、石原都知事 - ZAK×SPA! - ZAKZAK
⇒同性愛の日本史【前編】 かつて、美少年は神の化身と崇められていたのです | Gay Life Japan(これは去年1月の記事だけど)
⇒もみあげチャ〜シュ〜 : 信長は付き人の森蘭丸とホモセックスしまくってたんだけどどう思う? - ライブドアブログ
そして、この手の主張は多くの人の支持を集めやすい。
しかし、俺はこの手の主張に大いに違和感を抱いている。「作られた伝統」という最近流行の主張であり、同性愛を肯定するという「正義」に裏付けられているから受け入れられやすいのだと思うけれど、それで良いものだろうか?
この手の主張には「史実」ではないと思われるものが含まれている。
等というと、「お前は同性愛に嫌悪感を抱いているからそういうことを言うんだ」みたいなことをいわれる(実際某所で言われた)。
そんなことは一言もいっていないのに、そう決め付けるということ自体が、この手のことを支持する人の危うさを象徴している。
こういうレッテル貼りをされる可能性が高いから違和感を持つ人でもなかなか批判しにくいということはあるだろう。
また知識不足から違和感を持っても批判するほどの能力を持ち合わせていないから批判しないということもあるだろう。
俺も日本の同性愛の歴史についてそんなに知識があるわけではない。
しかし、織田信長と森蘭丸に性的関係があったなどという史料は知らないし、前田利家との関係も同様だ。
他の例だって自分で確認することは容易ではない。
信長について怪しげなことを言っているのだから、それらの例も素直に信じることはできない(疑えばきりがないけれど武田信玄についてだって、「春日源助」は高坂昌信のことと考えられていたが異説がでてきて何者かわからない。
「源助」だから男だとは限らないですよね)。
また、ヤマトタケルとクマソタケルの例を持ち出しているところもあって、これも良く見かける話だけれど、俺にはトンデモにしか見えない。
それに「寛容」とはどういうことを指すのかも定まっていないように思われる。
過去に同性愛が行われていたから寛容だといえるだろうか?
同性愛を徹底的に弾圧するというケースを考えれば「寛容」だったといえるのかもしれない。
しかし「正常・異常」という観点から見たときには果してどうか?
昨今問題になっているのはまさにこの点の方だと思われるが、単に過去も同性愛があったというだけでは、その答にはなっていない。
例えば遊里に通うことは「悪所通い」と呼ばれていた。
「悪所通い」が肯定的な意味だとは思えない。
異性との交渉でもこうなのだから、そういう意味での同性愛が肯定的だったとは思えない。
ただし「悪所通い」は「悪」であっても多くの人が普通にやっていた。
では、同性愛はどうか?
などなど考えるべきことはいっぱいある。
当時の人が同性愛に対してどう考えていたのかは余程慎重に検討しなければならないだろう。
同性愛にとって都合の良い(と思っているのだろう。俺はそう思わないが)主張を安易に支持するというのは、いわゆるひとつの「歴史修正主義」というものではないのだろうか?
(しかも、その自覚は全く無いように見えるどころか、逆にそれに反する言説を「作られた伝統」として批判しているのだから問題は深刻だ)
▽同性愛と伝統(その2)
続きを書こうと思ったんだけれど、いつもの調子で空想を交えて書くと、事が事だけに面倒なことになりかねないので躊躇する。
ただ、今流行の「日本は伝統的に同性愛に寛容だった」論は、結論ありきでろくな検証がなされていないと感じるということだけは強調しておきたい(それが学者の研究であっても怪しげなのはある)。
もっと本格的な研究が広くなされることを望む。
それと、これらの主張で紹介されている事例は全て「男の同性愛」だ。
これをもって「日本は伝統的に同性愛に寛容だった」として、現代の問題に繋げることができるのだろうか?
「男の同性愛」も同性愛に違いないだろうけれど、個人的には「男性愛」と呼ぶべきものではないかとも思う。
すなわち同性愛と異性愛で区切るよりも「男が男を愛する・女が男を愛する」と「女が女を愛する」で区切るべきものなのかもしれないと思うのだ。
仏教には変成男子という思想がある。
古来、女子(女性)は成仏することか非常に難しいとされ、いったん男子(男性)に成ることで、成仏することができるようになるとした思想。
⇒変成男子 - Wikipedia
女は転生によりランクアップして男になる。
すなわち男の方が尊いということだ。
とすれば女を愛するより男を愛する方が尊い行為ということになるだろう。
あくまで俺の空想であって、そういう学説があるのかは知らないけれど、もしかしたら「日本は伝統的に同性愛に寛容だった」というのは女性蔑視と一体になっているかもしれない。
そういうところまで想像力を働かせる必要があるのではないか(インドのカースト制にも通じるし)。
あと、「好色一代男」だとか「東海道中膝栗毛」などを例に、同性愛に寛容だったというのはどうなんでしょうね?
もちろん当時の世相を反映していることは間違いないんだろうけれど。
この問題が頻繁に取り上げられるようになったのは、話の流れとして東京都の表現規制が絡んでいるように思うんだけれど、作り話であるこれらの事例を基にして現実を論じると言うのは、現実と創作を混同しているという点で、本末転倒なんじゃなかろうかという気がしなくもない。