
#ккк
三崎港白灯埋立地
http://p219.pctrans.mobile.yahoo-net.jp/fweb/0103UKVEnCK8nVfk/0?_jig_=http%3A%2F%2Fwww.tsurigeki.com%2Fjg012misakikosirotoumetateti.html&_jig_keyword_=%96%84%82%DF%97%A7%82%C4%92n%20%8EO%89Y&_jig_done_=http%3A%2F%2Fimgsearch.mobile.yahoo.co.jp%2Fp%2Fimgsearch%2Fdetail%3Fp%3D%2596%2584%2582%25DF%2597%25A7%2582%25C4%2592n%2B%258EO%2589Y%26ib%3D15&_jig_source_=simg&guid=on
三浦半島の歴史 P13
http://p214.pctrans.mobile.yahoo-net.jp/fweb/0103cE4zVrxfzdEi/0?_jig_=http%3A%2F%2Fwww.ne.jp%2Fasahi%2Fkoiwa%2Fhakkei%2Fmiurahasi13.html&_jig_keyword_=%96%84%82%DF%97%A7%82%C4%92n%20%8EO%89Y&_jig_done_=http%3A%2F%2Fsearch.mobile.yahoo.co.jp%2Fp%2Fsearch%2Fpcsite%2Flist%3Fp%3D%2596%2584%2582%25DF%2597%25A7%2582%25C4%2592n%2B%258EO%2589Y%26b%3D53%26trans%3D1&_jig_source_=srch&guid=on
ファミリ−版
三浦半島の歴史 P13
参考文献
郷土出版社「図説・三浦半島ーその歴史と文化」
横須賀市 「横須賀市史」
三浦市 「目で見る三浦市史」
司馬遼太郎「三浦半島記」
神奈川新聞社「三浦半島再発見」
文芸社 「三浦半島通史」
郷土出版社「セピア色の三浦半島」 ほか
関連サイト
かねさはの歴史(大正時代)
横浜の歴史(明治・大正時代?)
(??)大正時代 1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦により横須賀では海軍工廠が大きく発展し、好景気をもたらしましたが、大正デモクラシーの高まりとともに労働運動も盛んになり、ストライキも行われました。
1923(大正12)年9月1日の関東大震災は三浦半島でも多くの人命や財産を奪っただけでなく、美しい海岸や自然をも一瞬にして奪い去り住民の懸命の復興活動のさなか、1926年12月大正天皇が崩御され大正時代は終わりました。
馬車から自動車へ>三浦半島でも大正時代に入ると急速に自動車が普及しはじめました。
半島での最初の自動車会社は1912(大正元)年に開業した「逗子自動車会社」で、香川悦二郎や丸 富次郎が中心となり資本金10万で設立されました。
開業当時は4人乗り2台と6人乗り4台の自動車で逗子ー長者ヶ崎間の乗合は横須賀線の列車が到着するたびに出発しました。
料金は逗子駅〜長者ヶ崎間は50銭、逗子駅〜御用邸間は45銭でした。
運転手は東京で経験を十分につんだベテラン揃いというのも、この逗子自動車会社の自慢でした。
次に登場するのは横須賀ー浦賀間(横須賀駅より現在の京浜急行浦賀駅)の乗合自動車で1912(大正2)年に自動車2台をもって開業し料金は48銭でした。
一日の利用客も100人を超えて乗合馬車の利用客とほぼ同じくらいとなり、馬車の時代は終わりを告げようとしていました。
-海軍工廠の発展-1914(大正4)年第1次世界大戦が勃発すると日本も戦争に加わり、横須賀の海軍工廠では工員の増員や施設の拡充が行なわれ、その年の9月には工廠の工員471人が工作船「関東」に乗船して出征していきました。
海軍工廠では戦艦「山城」や巡洋艦「天龍」さらには当時世界最大最強の戦艦といわれた「陸奥」など大型の軍艦が建造され、全国各地から集められた工員は2万人にも達し、海軍大拡張の波に乗り飛躍的に発展しました。
-大戦の光と影-大戦により連合国からの注文が多くなり、日本の貿易は活発となりました。三浦半島でも浦賀ドックや海軍工廠が活況を呈し、工員・従業員の収入が増加し、横須賀の繁華街は賑わいました。
一方大戦中の好景気は物価の騰貴をもたらし労働者の賃金はそれに追いつかなかったので労働運動も活発化し1915(大正4)年横須賀軍港防波堤工事の従業員が賃下げに反対してストライキを行いました。
1917年の秋から翌年にかけて内地の在庫米が著しく減少して米価が高騰し、各地で米騒動が起りました。
横須賀市内でも大事には至りませんでしたが、騒動の動きが見られ警察や横須賀憲兵隊が治安にあたりました。
大正時代には民衆の文化も進み、大衆娯楽も充実しました。
明治末期から東京では活弁による映画やオペラ、演劇などが隆盛となりますが、横須賀の繁華街には寄席や映画館ができて繁盛しました。
下町にも旭常設館、電気館、大勝館などの映画館ができました。
1914(大正3)年、日本蓄音機商会が初めて国産の蓄音機をつくりましたが、それが急速に普及しレコードが売れるようになりました。
北原白秋が三浦に滞在中につくった「城ヶ島の雨」のレコードがヒットし全国各地で盛んに歌われるようになり城ヶ島へ憧れてこの地を訪れる若い男女が多くなったのもこの頃のことです。(参考・北原白秋と城ヶ島)
三崎や城ヶ島に観光客がくるようになると観光土産店なども多くなり、三崎館や岬陽館も料理旅館へと変わっていきました。
追浜に横須賀海軍航空隊が開設されたのは1912(明治45)年6月に創立された海軍航空技術研究所によって飛行機の操縦、飛行機の研究が開始され、そのための練習所が追浜につくられたことに由来します。
練習所は追浜海岸の埋立地と付近の畑を整地して南北600メートル、東西200メートルの土地を造成し、機体格納庫一棟と海岸に滑走台等が設けられました。
1916(大正5)年4月に海軍航空隊令が発布され、追浜に日本最初の海軍航空隊である横須賀海軍航空隊が開設されました。
開設当初は水上機が数機あっただけと言われますが、時代とともに機数も増えていきました。
以後1922(大正11)年11月に霞ヶ浦航空隊が開設されるまで飛行機搭乗員の養成は横須賀海軍航空隊で行われていました。
この間1918(大正7)年6月から陸上飛行場を造るための埋め立て工事が始められました。
この工事によって夏島の半分が削られ烏帽子岩が姿を消す中で1926(大正15)年3月に陸上飛行場はほぼ完成しましたが、それまでは横須賀海軍航空隊では水上機のみによる操縦訓練が行われていました。
埋め立てた飛行場は40万平方メートルの敷地を持ち、敷地内には飛行機を入れる巨大な格納庫、気球格納庫や事務所、兵舎、整備工場その他倉庫など大小60棟の建物が配置されており、南方の小丘には気象観測所および鳩舎が設けられ、鳩舎には軍用鳩が数百羽飼育されていました。
太平洋戦争後は横須賀海軍航空隊の敷地は日産自動車追浜工場とその関連施設に生まれ変わりました。
1920(大正9)年10月1日を期して実施された第一回国勢調査によると横須賀市の人口は89,879人で1907(明治40)年の市制がしかれた時の人口62,876人が1,4倍に膨れ上がり、町としての発展が続いていたことがわかります。
横須賀に次いで人口の多いのが浦賀町20,372人でその次は発展が著しい田浦町で20,180人と明治40年の人口に比べると浦賀の人口が1,2倍であるのに対し、田浦は約3倍に増えていますが、これは田浦地域への海軍施設の拡充が大きな要因となっています。
このほかの三浦半島の諸地域での人口は葉山村が7558人、逗子町が9152人、三崎町が9864人となっています。
1899(明治32)年2月に「高等女学校令」が出されて、中学校制度から独立した女子教育機関の充実が図られるようになり横須賀でも組合組織の横須賀女子実業補修学校が開校しましたが、海軍内部からの海軍士官の妻としてふさわしい教育が受けられる教育機関をという要望により、翌年3月横須賀高等女学校として神奈川県の公立女学校としては県立高女(のちの平沼高校)、厚木高女に続く3番目の高等女学校が誕生しました。
1930(昭和5)年に深田台から浦賀町の大津へ移転し、同時に市から県へ移管され、神奈川県立横須賀高等女学校(現大津高校)へと改称しました。
ー震災の被害ー1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災により横須賀の下町では地震と同時に大火災となり、一面焼け野原になりました。
上町から佐野に至る道筋の二階家は一軒残らず潰れてしまいました。
その壊れた家が道をふさぎ、人々は屋根の上を通って歩くしまつでした。
浦賀町では震災後まもなく同町荒巻から発生した火はおりからの西南の風にあおられてたちまちひろがり、荒巻、谷戸を炎に包みました。
同時に浦賀船渠株式会社から発生した火災は大ヶ谷に飛び火して築地新町へ延焼しました。
三崎町では大火はなかったものの数多くの民家が倒壊、地盤の隆起によって海岸では磯石が露出してしまい、以後海水浴客は激減してしまいました。
逗子の被害も大きく家屋の全半壊が1900戸近くに及び死者76名を数えました。
ー震災の復興ーこの関東大震災の復興はいち早く始められ昭和に入る迄続けられました。
この復興期に都市整備が行われたり、埋め立てがなされたり三浦半島でもさまざまな変化が見られました。
震災前では草葺きや瓦葺き屋根の民家が多く、大地震では瓦が落ちて怪我をする人も多かったことから再建された民家はトタン屋根が多くなりました。
復旧なった小学校なども地震の際にいち早く児童が外へ出られるよう昇降口を多くしたりしました。
横須賀の市街地では復興とともに海岸部の埋め立てが行われました。
これは海岸が隆起して浅くなったこと、さらにそこをがけ崩れの土砂や倒壊した家の残骸を捨てる場所としたからです。
市街地の区画整理も行われましたが、海軍の意向を強く反映して道路の拡幅がなされ格子状の道路が設けられました。
大滝町の通りの道幅は約3間(5,4m)でしたが、15間(約27m)幅となり舗装されました。
三崎町でも隆起した海岸部の埋め立てが行われ、昭和5年にはその埋立地に近代的な魚市場が建設され、三崎港への魚類の水揚げ高は徐々に増大していきました。
女性の権利や地位向上を目指した大正デモクラシーの中で「青踏社」を中心とした平塚らいてう、市川房枝らとともにはなばなしい活躍をした一人に横須賀出身の山田わかがいました。
山田わかは1879(明治12)年久里浜村の久村に浅羽家の三女として生まれ、実家の窮状を救うため18歳のときアメリカに渡りましたが失敗、帰国後東京の山田英語塾で学び、結婚後夫と外国語塾を開くかたわら大杉栄の紹介で入社した青踏社で外国文献の翻訳や評論を次々と発表、機関紙「青踏」廃刊後は個人雑誌「婦人と新社会」を創刊するなど各方面で活躍、女流評論家としての地位を固めました。
1934(昭和9)年には母性保護法制定促進婦人連盟の会長となり母性保護法の制定に尽力し、自らも都内に母子寮や保育所を設け、太平洋戦争後は売春婦の厚生施設「幡ヶ谷女子学園」を設立しました。
葉山御用邸は1894(明治27)年に開設され、以来大正、昭和、平成を通じて天皇、皇后をはじめ皇太子、皇太后などが利用されていますが、なかでも大正天皇は公務の合間を縫ってしばしば御用邸を利用され、葉山周辺をこよなく愛されました。
ご病気にかかられた大正天皇は1926(大正15)年8月より葉山御用邸で療養されていましたが、病状は悪化、それにつれて陛下平癒祈願に葉山を訪れる人も多くなりました。
11月になると横須賀港に寄港中の軍艦「春日」の乗組下士卒300人は葉山一色海岸まで行幸し、葉山御用邸に向かって平癒祈願をしました。
また60歳になる老人が御用邸裏の浜で天皇の病気平癒のために水行をしたこともありました。
12月には天皇のご病状はさらに悪化、25日朝に葉山御用邸で崩御され、即日御用邸において摂政宮裕仁親王(昭和天皇)が即位され、元号は昭和となりここに昭和の時代が開幕しました。
中里町大通りを走る乗合自動車
-現上町2丁目付近-(横須賀市史 より)
工作船「関東」と出征兵士たち(図説・三浦半島-その歴史と文化- より)
深田観念寺(現米ヶ浜通)の映画館「大勝館」(横須賀市史 より)
横須賀海軍航空隊の水上機班全景(図説・三浦半島-その歴史と文化- より)
1926(大正15)年の横須賀海軍航空隊(久保木 実編・三浦半島の百年 より)
1915(大正4)年若山牧水は病弱な喜志子夫人の転地療養のため風光明媚な横須賀・北下浦海岸に近い長沢に移り住み、以後1年10ヶ月あまりをこの地で過ごしました。
この間牧水は漂泊の詩人として旅を愛し、酒を愛し、幾つかの優れた歌を残しました。
北下浦海岸には牧水夫妻の歌碑が残されています。
白鳥は悲しからずや空の青
海の青にもそまずただよふ
歌碑の裏側には
うちけぶり鋸山も浮かび来と
今日のみちしほふくらみ寄する
という喜志子夫人の歌が刻まれています。
若山牧水の歌碑(横須賀・北下浦海岸)
第一回国勢調査員(浦賀文化センター蔵)
大正期の横須賀高等女学校の校舎(部分)(図説・三浦半島-その歴史と文化 より)
関東大震災の被害
どぶ板通り(現本町2丁目)の倒壊家屋(横浜市史 より)
大正初年の御用邸(久保木 実編・三浦半島の百年 より)
略年
表大正時代 1912海軍航空技術研究委員会(のちの航空隊)設立1913浦賀・横須賀間自動車会社創業。
三崎町に初めて電灯がつく。
田越村が逗子町となる。
横須賀郵便局局舎
落成1914
第1次世界大戦勃発浦郷村を田浦町と改める1915横須賀市開港五十周年祝賀式開催1916大杉 栄、葉山の日影茶屋で神近市子に刺される。
追浜に海軍航空隊
開庁1917横須賀海浜団楠ヶ浦に移転。
関東瓦斯(株)横須賀瓦斯製造所を開設。
乗合自動車が三崎・横須賀間に運転される
1918追浜で飛行場を造成するために埋立工事開始。
横須賀でも米騒動、諏訪公園で600人あまりの集会。
1919さいか屋呉服店合名組織となる。
葉山御用邸付属邸新築。
不入斗に東京湾重砲兵連隊設置。
三崎の魚輸送にトラックが使用されはじめる
1920第一回国政調査行なわれる。
葉山分署が葉山警察署に昇格
1921横須賀市街乗合自動車(株)創立。
三浦自動車(株)設立1922大平自動車(株)が
湘南自動車(株)を吸収。
諏訪公園で小栗上野介、ウェルニーの胸像除幕式。
臨海自動車(株)創立
1923三浦按針墓、国の文化財(史跡)に指定。
関東大震災船越トンネル完成
1923横須賀線複線化完成。
三春町海岸に海水浴場開設。
横須賀信用組合(湘南信金の前身)設立。
逗子信用組合設立1925大津の海軍練兵場で第一回競馬会。
横須賀線で電気機関車の使用開始。
安浦港完成1926追浜の陸上飛行場完成
浄楽寺の阿弥陀三尊像、国宝に指定。
三浦郡役所廃止。
大正天皇葉山御用邸で崩御
※ 系統接続ポイントまでの距離は、現在の東京電力の設備をもとに机上で計算したもので、実際の連系に当たっては距離が異なる場合があります。
※ 各関係法令等による規制や所要の手続は、事業の計画によって異なる場合がありますので、個別に御確認をお願いします。
調査票
土地情報
番号 No.6
所有者区分 市有地
土地(施設)の名称
三崎漁港(二町谷地区)埋立地
所在地
三浦市三崎
敷地面積(公簿面積)
約 2.4ha
地目
雑種地
従前の土地利用
未利用地(埋立地)
土地形状・現況
ほぼ平地で草地になっている。
取付道路の有無
有(大型車両通行可能)
周囲の受光障害物
敷地の南側に汚水処理場が隣接。(2階建ての建物あり)
年間日射量
1,442kWh/? (三浦観測所)
都市計画上の区域区分等
市街化区域(準工業地域)、地区計画区域(二町谷地区)
主な土地利用規制
( 関 連 法 規 )
系統接続ポイントまでの距離 約 0.05km(6.6kV)
配電用変電所までの距離 約 3.6km
土地提供方法
売却又は貸付(応相談)
特記事項
敷地の北東部及び北西部が海岸に近接している。(海岸からの距離は、それぞれ40m及び50m程度)
http://www.pref.kanagawa.jp/uplo
http://p215.pctrans.mobile.yahoo-net.jp/fweb/0103vePcWadGPpnS/0?_jig_=http%3A%2F%2Fwww.pref.kanagawa.jp%2Fuploaded%2Fattachment%2F422096.pdf&_jig_keyword_=%96%84%82%DF%97%A7%82%C4%92n%20%8EO%89Y&_jig_done_=http%3A%2F%2Fsearch.mobile.yahoo.co.jp%2Fp%2Fsearch%2Fpcsite%2Flist%3Fp%3D%2596%2584%2582%25DF%2597%25A7%2582%25C4%2592n%2B%258EO%2589Y%26b%3D33%26trans%3D1&_jig_source_=srch&guid=on