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2. 捕虜‐Prisoner of war, POW

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捕虜の保護[編集]

1899年のハーグ平和会議

近代国際法が確立されるにつれ、捕虜は保護されるべきものであると考えられるようになった。

そのため、1899年の陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(ハーグ陸戦条約)以降、各種条約によって明文を以て保護されるようになった。

それによって近代的軍隊においては、任務を果たすための努力を尽くした上で、万策尽きた際に捕虜になることは違法な行為ではないものとされる。

封建的な軍制や傭兵の時代から、近代市民兵の時代へと移行し、個人の権利保護が重要になったからである。

そして同時に、勇戦して然るべき後に降伏し捕虜になることを認めれば、戦略的価値を無くした戦線、形勢逆転の可能性の無くなった戦線をあえて見捨てるという事が可能になり、戦略上の選択肢が増え、純軍事的にもメリットが大きいのである。

捕虜になることを認めずに見捨てることは人道的非難を免れず、加えて自軍兵の戦意を削ぎ、違法を承知で捕虜となった将兵の対敵協力を誘発するおそれもあることから、純軍事的にも得策ではない。

もちろんこれらは降伏する側の事情であるが、降伏を受ける側もその事情を踏まえた上で、捕虜を保護するようになった。

自軍の損害を減らすためには、敵軍が早期に降伏したほうが都合が良いのは当然の事である。

捕虜を虐待し、その事が敵軍にも知られてしまうと、当然ながら敵軍はなかなか降伏せず、自軍の損害を無駄に増やす事になる。

また、捕虜の虐待は敵国からの報復を招き、敵軍の捕虜となった自軍の兵の虐待を誘発する危険がある。

あるいは人道上の問題となり、交戦国以外からの無用な外交的孤立や国内世論からの非難をも招く恐れがある。

もっとも、自ら進んで敵軍に向け逃げ去り捕虜になることは「奔敵」とされ厳罰を受けることが通常である。

また正当な事由でやむなく捕虜になった後も、軍機情報の供与といった積極的な対敵協力を行うことは軍法に反することが一般的である。

1949年8月12日のジュネーヴ条約4規程及び1977年の第一追加議定書によって、戦時における軍隊の傷病者、捕虜、民間人、外国人の身分、取扱いなどが定められている。

第3条約「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」により、ハーグ陸戦条約の捕虜規定で保護される当事国の正規の軍隊構成員とその一部をなす民兵隊・義勇隊に加え、当該国の「その他の」民兵隊、義勇隊(組織的抵抗運動を含む)の構成員で、一定の条件(a, 指揮者の存在、b, 特殊標章の装着、c, 公然たる武器の携行、d, 戦争の法規の遵守)を満たすものにも捕虜資格を認めた。 1977年の第一追加議定書ではさらに民族解放戦争等のゲリラ戦を考慮し資格の拡大をはかった。

旧来の正規兵、不正規兵(条件付捕虜資格者)の区別を排除し、責任ある指揮者の下にある「すべての組織された軍隊、集団および団体」を一律に紛争当事国の軍隊とし、かつこの構成員として敵対行為に参加する者で、その者が敵の権力内に陥ったときは捕虜となることを新たに定めたのである。

なおテロリスト等は国際法上交戦者とはされず、捕虜にはなり得ない。

最近では軍隊とテロリスト等が交戦する非対称戦争が注目されている。

むやみに捕縛者を犯罪者扱いすれば国内外からの非難を浴びかねないこともあり人道的見地から捕虜に準じた扱いをとるケースが増えている。

交戦者資格を持たない文民は第4条約で保護されているが、戦闘行為を行い捕縛・拘束された場合は、捕虜ではなく通常の刑法犯として扱われるのが原則である。

裁判は現地部隊で行われる略式裁判(特別軍事法廷)も含まれ、しばしばその場で処刑される。

第3条約は、捕虜の抑留は原則として「捕虜収容所」(俘虜収容所)において行うことを予定している。

ジュネーヴ条約は次の4つの条約および二つの追加議定書から構成されている。

第1条約

「戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。

第2条約

「海上にある軍隊の傷者、病者及び難船者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。

第3条約

「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。

第4条約

「戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。

第1追加議定書

「1949年8月12日のジュネーヴ諸条約の国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(議定書?)」

第2追加議定書

「1949年8月12日のジュネーヴ諸条約の非国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(議定書?)」


捕虜の義務[編集]

捕虜は、尋問を受けた場合には、自らの氏名、階級、生年月日及び識別番号等を答えなければならない(第三条約第17条第1項)。

原則としてこれ以外の自軍や自己に関する情報を伝える義務は無い。

捕虜は、抑留国の軍隊に適用される法律、規則及び命令に服さなければならない。

抑留国は、その法律、規則及び命令に対する捕虜の違反行為について司法上又は懲戒上の措置を執ることができる(第三条約第82条)。

将校及びそれに相当する者の収容所又は混合収容所では、捕虜中の先任将校がその収容所の捕虜代表となる(第三条約第79条第2項)。

将校が収容されている場所を除くすべての場所においては、捕虜の互選で選ばれた者が捕虜代表者となる(同条第1項)。

捕虜代表は、捕虜の肉体的、精神的及び知的福祉のために貢献しなければならない(第三条約第80条第1項)。

将校を除く捕虜は、抑留国のすべての将校に対し、敬礼をし、及び自国の軍隊で適用する規則に定める敬意の表示をしなければならない(第三条約第39条第2項)。

捕虜たる将校は、抑留国の上級の将校に対してのみ敬礼するものとする。

ただし、収容所長に対しては、その階級のいかんを問わず、敬礼をしなければならない(同条第3項)。


捕虜の虐待[編集]

カティンの森事件の虐殺遺体

近代の国際法では、捕虜に対して危害を加えることは戦争犯罪とされるに至ったが、捕虜を虐殺する事件も決して少なくなかった。

捕虜を保護し、それを知らしめる事により早期の降伏を促す事のメリットは上記で述べた通りであるが、現実には捕虜を適正に扱うにも食糧や医薬品の提供などの負担が必要であり、補給の途絶や不足が生じた場合にはその余裕がなくなる。

よって捕虜の虐待は、そういった余裕の無い場合に頻発した。

第2次世界大戦中の枢軸国側の捕虜虐待は、戦後に連合国によって戦争犯罪として裁かれ、なかには充分な審理を受けられないまま処刑された例も少なくない。

それに対して、連合国側の行った捕虜虐待の大半は全く責任を問われないまま終わってしまった(ドイツ人への報復など)。

更には、ソ連によるポーランド軍将校の大量虐殺を枢軸国側の捕虜殺害に転嫁した例すら存在した(カティンの森事件)。

第二次世界大戦では、西部戦線におけるマルメディ虐殺事件などが知られている。

また捕虜には、ジュネーヴ諸条約の規定を越える情報を提供する義務は無いため、必要な情報を得るために拷問などの虐待が行われるケースがある。

近年ではイラク戦争において、アメリカ軍による捕虜虐待事件が起きている。


捕虜に関する法律[編集]

条約[編集]

陸戦ノ法規慣例ニ關スル条約(ハーグ陸戦条約):1899年締結、1907年改定。

日本は、1911年11月6日批准、1912年1月13日に公布。

俘虜の待遇に関する条約:1929年7月27日締結。

日本は署名のみで批准せず。

捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第3条約)

ジュネーヴ諸条約第一追加議定書


国内法[編集]

武力攻撃事態における捕虜等の取扱いに関する法律- 日本


日本[編集]

敵に投降すること[編集]

例えば、日本陸軍で適用された陸軍刑法(明治41年4月10日法律第46号)では、

第40条司令官其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ敵ニ降リ又ハ要塞ヲ敵ニ委シタルトキハ死刑ニ処ス

第41条 司令官野戦ノ時ニ在リテ隊兵ヲ率イ敵ニ降リタルトキハ其ノ尽スヘキ所ヲ尽シタル場合ト雖六月以下ノ禁錮ニ処ス

第77条 敵ニ奔リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

と定めて、濫りに投降することを制限していた。

しかしながら同時にこれは、然るべき場合においては投降する事が認められていた事をも意味している。


日清・日露戦争[編集]

日清戦争中の捕虜処刑を描いた図

日清戦争においては、清軍兵士が捕虜である自覚が全く無く集団で反抗する事が日常茶飯事であったこと、清軍が日本の捕虜に対し残酷極まりない辱めを与えたことから、日本側でも清軍の捕虜の扱いは酷いものであった。

日露戦争、第一次世界大戦などでは、戦時国際法を遵守して捕虜を厚遇したことが知られている。

ただし前述の経緯から、非白人の捕虜に対しては、白人の捕虜ほど厚遇はされなかった。

そういう差別があったため、あくまで近代国家を目指す日本の欧米に向けたポーズでしか無かったという指摘もある。

また、日本側で捕虜となった人間の扱いも後世と異なっていた。

例えば、旅順要塞降伏後、日本人捕虜101人(陸軍80名、海軍17名、民間人4名)が解放されたが、彼らは「旅順口生還者」と呼ばれ、冷遇されることは無かった。

海軍捕虜の一人であった万田松五郎上等機関兵曹(第三次閉塞作戦で「小樽丸」に乗り込み、捕虜となる)は、解放後に上京し、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将に面会して作戦状況の報告を行い、記念に金時計を授与されている。

また、陸軍においても開戦直後の明治37年2月19日、義州領事館に所在して情報収集活動をしていた韓国駐在陸軍武官・東郷辰二郎歩兵少佐がロシア騎兵部隊の包囲を受けて部下の憲兵5名(中山重雄憲兵軍曹、坪倉悌吉憲兵上等兵、古賀貞次郎憲兵上等兵、牛場春造憲兵上等兵、山下栄太郎憲兵上等兵)とともに降伏、捕虜になり(日露戦争における捕虜第1号)、ペテルブルクの収容所で捕虜生活を送った後、戦後の明治39年2月14日に帰国したが、任務遂行中に捕虜になった不注意で軽謹慎30日の処分を受けたのみであり、東郷少佐は後に少将まで昇進している。


第一次世界大戦[編集]

詳細は「板東俘虜収容所」を参照 (同収容所のみならず同大戦中のドイツ兵捕虜の取扱いについて詳述されている。)


シベリア出兵[編集]

この戦いは国家対国家の正式な戦争ではなかった事、日本側の軍人、民間人が虐殺行為を受ける事がしばしばあった事(尼港事件)もあいまって、捕虜の厚遇などは全く見られなくなる。

特にボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民からなる非正規軍、パルチザンの存在が兵士たちを困惑させ、時には虐殺行為すら生じた。

これが日本軍における捕虜の扱いにおいての転換点となった。


日中戦争・第二次世界大戦初期[編集]

日中戦争やノモンハン事件では、人事不省の状況などで捕虜となった日本兵が救出されて生還する例があったが、その一部は帰国後に自決を強要されたり懲罰的に戦死に追い込まれたりすることもあった。

また、帰国を拒否したり、そもそも投降より自決を選んだ兵士もあり、捕虜になるよりも死を選ぶようになる。

また、南京事件では便衣兵の殺害が問題とされた(南京大虐殺論争)。

便衣兵とは軍服を着用しない兵士のことで、捕虜とは異なる[8]。

「便衣兵」を参照


太平洋戦争[編集]

沖縄戦での日本兵捕虜

バターン死の行進で死亡したアメリカ・フィリピン兵捕虜

日本軍兵士自身の投降については戦陣訓により厳しく戒められるようになった。

その原因は敢闘精神の不足と敵への情報の漏洩を恐れた事と言われる。

捕虜となれば本人や家族が厳しく糾弾されるため兵士は戦死よりも捕虜になることを恐れ、しばしば自決や玉砕の動機となった。

日本軍は竹永事件などきわめて少数の例外のほか組織的投降を行わず、個人の投降者も稀であった。

この事は欧米と比べとても異質であるため海外から見た日本軍のイメージに大きな影響をあたえている。

一方で、捕虜となった際に敵による尋問や強要を切り抜けるための教育がなされなかった上、捕虜となったことを日本軍に通知されることを極度に恐れた日本兵捕虜は、投降前や投降直後の態度とは一転して積極的な対敵協力者になる例が多くあった。

また集団心理から恐慌状態となり、カウラ事件のように絶望的な反乱を起こした例もあった。

また、投降を認めない事により、不利になった戦線をあえて見捨てるという非情の決断が不可能になり、作戦の自由度を大きく削ぐという問題も生じている。

キスカ島撤退作戦が「奇跡の作戦」として特筆されているが、裏を返せば他の撤収作戦は失敗している事と、救出を諦め守備兵の降伏を認めるという選択肢が当時の日本軍には無かった事をも意味している。

海軍乙事件のように、遭難した高級将校がゲリラに捕縛され、後に解放され帰還した事件で、これを敵の捕虜となったと看做すかどうかという事のみが重要議題となり、機密文書を奪われたという重大事についての議論がおざなりになるという、滑稽な事態も起きている。

連合国側は、開戦直後から日本にジュネーヴ条約の相互適用を求めた。日本は陸・海軍の反対でジュネーヴ条約を批准しておらず、調印のみ済ませていた。

日本側は外務省と陸軍省などの協議の結果、ジュネーヴ条約を「準用」すると回答した。

回答を受けたアメリカ・イギリス側は批准と同等と解釈した。

そのため、捕虜とした連合国兵士の扱いについては戦時中から連合国側から不十分と非難されていた。

太平洋戦争では、特に緒戦において連合国軍軍隊の大規模な降伏が相次ぎ、日本側は相当数の捕虜を管理することとなった。

大規模な捕虜が出た戦いとしては、フィリピンの戦い、蘭印作戦、シンガポールの戦い、香港の戦いなどがある。

これら多数の捕虜の取扱いについて、必ずしも十分な保護が与えられず、バターン死の行進、サンダカン死の行進などの事件が生じた。

その原因は捕虜への考え方の違いもさることながら、日本の予想人数を大幅に超えたことや、日本軍自身の兵站が十分ではなかったことや、劣勢のため捕虜の保護が十分ではなかったことがあげられる。

また、捕虜の扱いを軽視していたため、俘虜管理部の軍での地位は低く、ジュネーヴ条約の内容について、管理者に指導することもなかった。

戦後にポツダム宣言により、捕虜を不当に取り扱ったとされた軍人等が連合国による東京裁判、軍事法廷で裁かれ、処刑される者が多かった。

代表的な人物として、比島俘虜収容所長(1944年3月-)となった洪思翊中将などがいる。

その他、憲兵にも戦犯とされた者が多かった。

東京裁判は判決で、日本の捕虜になったアメリカ・イギリス連邦の兵士132,134人のうち35,756人(約27%)が死亡したと指摘している。

捕虜となった連合国将官としては、米国軍では、ジョナサン・ウェインライト中将(フィリピンの戦い)、エドワード・P・キング少将(フィリピンの戦い)、ウィリアム・シャープ少将(フィリピンの戦い)などがいる。

英国軍では、アーサー・パーシバル中将(シンガポールの戦い)、クリストファー・マルトビイ少将(香港の戦い)などがいる。

蘭国軍では、ハイン・テル・ポールテン中将(蘭印作戦)、ペスマン少将(蘭印作戦)などがいる。

1945年(昭和20年)9月2日に調印された降伏文書では「下名ハ茲ニ日本帝国政府及日本帝国大本営ニ対シ現ニ日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ連合国俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所ヘノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ズ」とあり、俘虜の取扱いは日本と連合国との間で重要な事項とされた。

そのため、1945年(昭和20年)12月1日に発足した第一復員省にも大臣官房俘虜調査部(初代部長は坪島文雄中将)が置かれた。

第二次世界大戦主要国別捕虜数

ドイツ 9,451,000人
フランス 5,893,000人
イタリア 4,906,000人
イギリス 1,811,000人
ポーランド 780,000人
ユーゴスラビア 682,000人
ベルギー 590,000人
フランス植民地 525,000人
オーストラリア 480,000人
アメリカ合衆国 477,000人
オランダ 289,000人
ソビエト連邦 215,000人
日本 208,000人

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