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皿屋敷 - Wikipedia
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皿屋敷
『新形三十六怪撰』より「新形三十六怪撰 皿やしき於菊乃霊」(月岡芳年画、1890年)
皿屋敷(さらやしき)は、お菊の亡霊が井戸で夜な夜な「イチマーイ、ニマーイ..」と皿を数える情景が周知となっている怪談話の総称。
播州姫路が舞台の『播州皿屋敷』(ばんしゅう-)、江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』(ばんちょう-、ばんまち-)が広く知られる。
尼崎を舞台とした異聞があり、また全国にその#類話がみられる。
江戸時代、浄瑠璃、講談、歌舞伎の題材となった。
明治には、数々の手によって怪談として発表されている。
大正、岡本綺堂の#戯曲『番町皿屋敷』は、恋愛悲劇として仕立て直したものである。
概要[編集]
古い原型に、室町末期に播州を舞台とする『竹叟夜話』があるが、皿ではなく盃の話であり、一般通念の皿屋敷とは様々な点で異なる。
皿や井戸が関わる怨み話としては、18世紀の初頭以降、江戸の牛込御門あたりを背景にした話が散見される。
そして1741年に浄瑠璃『播州皿屋敷』が上演され、お菊と云う名、皿にまつわる処罰、井筒の関わりなど、一般に知られる皿屋敷の要素を備えた物語が成立する。
1758年に講釈師の馬場文耕が、江戸の番町を舞台に書き換え、これが講談ものの「番町皿屋敷」の礎石となっている。
播州ものでは、戦国時代の事件とする。
姫路市の十二所神社でお菊を祀るお菊神社については、江戸中期の浄瑠璃に登場するが戦国時代までは遡れないと考察される。
お菊虫については、播州1795年におこった虫(アゲハチョウの蛹)の大発生がお菊の祟りであるという巷間の俗説で、これもお菊伝説に継ぎ足された部分である。
播州皿屋敷[編集]
お菊虫
『絵本百物語』竹原春泉画
播州皿屋敷の題材は、早くは歌舞伎として演じられた。
1720年6月 (享保5年) 、京都の榊山四郎十郎座が、歌舞伎『播州錦皿九枚館』を上演している。
台本は現存しないが、その役割番付(天理図書館)から人物・背景がうかがえるので、この歌舞伎がすでに「皿屋敷伝説を完全なかたちで劇化した」ものだと考察される。
また、同年に金子吉左衛門座が題名も内容不詳の皿屋敷を上演している[注 1]。
浄瑠璃・播州皿屋敷[編集]
浄瑠璃『播州皿屋敷』は、寛保元年(1741年)大阪の豊竹座で初演がおこなわれた[注 1]。
室町時代、細川家のお家騒動を背景としており、一般の知る皿屋敷伝説に相当する部分は、この劇の下の巻「鉄山館」に仕込まれている、次のようなあらすじである:
細川家の国家老、青山鉄山は、叛意をつのらせ姫路の城主にとってかわろうと好機をうかがっていた。
そんなおり、細川家の当主、巴之介が家宝の唐絵の皿を盗まれ、足利将軍の不興を買って、流浪の。
鉄山は、細川家の宿敵、山名宗全と結託して、細川の若殿を毒殺しようと談義中に、委細をお菊に聞かれてしまい、お菊を抹殺にかかる。
お菊が管理する唐絵の皿の一枚を隠し、その紛失の咎で攻め立てて切り捨てて井戸に投じた。
とたんに、井筒の元からお菊の死霊が現れ、鉄山を悩ます。
現場に駆けつけたお菊の夫、舟瀬三平に亡霊は入れ知恵をし、皿を取り す。
浄瑠璃では、家宝の皿が以前にも盗難などに遭う話や、その因縁がもりこまれた経歴が、上の巻の前半「冷光院館」[注 2]、および上の巻の後半「壬生村、楽焼家弥五兵衛住家」[注 3]に収録される。
西播怪談実記[編集]
播州佐用郡の春名忠成による『西播怪談実記』(1754年(宝暦4年)に「姫路皿屋敷の事」の一篇が所収される。
お菊虫[編集]
ジャコウアゲハの蛹、いわゆる「お菊虫」
お菊虫の元になったのは1795年に大量発生したジャコウアゲハのサナギではないかと考えられている[注 4]。
サナギの外見が女性が後ろ手に縛り上げられた姿を連想させることによる。
このことと、最初の姫路藩主池田氏の家紋が平家由来の揚羽蝶であることとにちなんで、姫路市では1989年にジャコウアゲハを市蝶として定めた。
また十二所神社では戦前に「お菊虫」と称してジャコウアゲハのサナギを箱に収めて土産物として売っていたことがあり、志賀直哉の『暗夜行路』にも主人公がお菊虫を買い求めるくだりがある。
お菊井戸[編集]
お菊井戸
姫路城の本丸下、「上山里」と呼ばれる一角に「お菊井戸」と呼ばれる井戸が現存する。
播州皿屋敷実録[編集]
『播州皿屋敷実録』は、成立時は明らかではないが[10]、江戸後期に書かれた、いわば好事家の「戯作(げさく)」であり、脚色部分が多く加わっている。
姫路城第9代城主小寺則職の代(永正16年1519年[注 5]以降)、家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし鉄山の計略を探らせた。
そして、元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る。
乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四朗に調査するように命令した。
程なく弾四朗は密告者がお菊であったことを突き止めた。
そこで、以前からお菊のことが好きだった弾四朗は妾になれと言い寄った。
しかし、お菊は拒否した。
その態度に立腹した弾四朗は、お菊が管理を委任されていた10枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿「こもがえの具足皿」のうちの一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた。
以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという。
やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。
その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。
その後300年程経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる。
このほか、幕末に姫路同心町に在住の福本勇次(村翁)編纂の『村翁夜話集』(安政年間)などに同様の話が記されている。
番町皿屋敷[編集]
葛飾北斎「百物語・さらやしき」
江戸の「皿屋敷」ものとして最も人口に膾炙しているのが1758年(宝暦8年)の講釈士・馬場文耕の『皿屋敷弁疑録』が元となった『番町皿屋敷』である。
牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。
それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。
ここに菊という下女が奉公していた。
承応二年(1653年)正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。
怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。
菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。
まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。
やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。
その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。
ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという。
しかしこの話、まず了誉上人は実在の人物ではあるものの1420年(応永27年)に没した人物、火付盗賊改が創設されたのは1662年(寛文2年)、千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿、などと矛盾やこじつけがあまりに多い。
しかしその筋立てのおもしろさ故か、「青山主膳とお菊の番町皿屋敷」というイメージが他でも取り入れられるようになった。
東京都内にはお菊の墓というものがいくつか見られる。
現在東海道本線平塚駅近くにもお菊塚と刻まれた自然石の石碑がある。
元々ここに彼女の墓が有ったが、戦後近隣の晴雲寺内に移動したという。
これは「元文6年(1741年)、平塚宿の宿役人眞壁源右衛門の娘・菊が、奉公先の旗本青山主膳の屋敷で家宝の皿の紛失事件から手打ちにされ、長持に詰められて平塚に返されたのを弔ったもの」だという。
皿屋敷伝説の発生[編集]
皿屋敷の伝説がいつ、どこで発生したのか、「いずれが原拠であるかは近世(江戸時代より)の随筆類でもしかとはわからぬし、また簡単に決定できるものでもあるまい」とされる。
中山太郎は播州ではないと断言しているが[要検証 ノート]、播州を推す者もあり、橋本政次は『姫路城史』において太田垣家に起こった事件が原点ではないかとしている[注 6]。
竹叟夜話[編集]
大田垣にまつわる事件については、播磨国永良荘(現兵庫県市川町)の永良竹叟が『竹叟夜話』(1577年(天正5年)に記したものがあり、執筆より更に130年前の事件を語っている。
あらましは以下の通り:[注 7]。
嘉吉の乱(1441年)の後、小田垣主馬助[注 6]という山名家の家老が播磨国青山(現・姫路市青山)の館代をしていた頃、花野という脇妾を寵愛していた。
ここに出入りしていた笠寺新右衛門という若い郷士が花野に恋文を送り続けていたが拒絶され続けていた。
ある時、小田垣が山名家から拝領していた鮑貝の五つ杯の一つが見あたらないことに気づき、花野に問いただしてもただ不思議なことと答えるだけ、怒った彼は杯を返せと彼女を責め立てた。
実は笠寺がその一個を密かに隠していたのだが、彼は意趣返しに「杯が見つからなければ小田垣家も滅びる」と脅しながら花野を折檻し、ついには松の木にくくり上げて殺してしまった。
その後、花野の怨念が毎夜仇をなしたという。
やがてこの松は「首くくりの松」と呼ばれるようになった。
『竹叟夜話』の挿話は、室町末と成立年代が古いが、皿ではなく盃用のアワビだったり、女性がお菊ではなく花野であり、青山氏の名もない等、後の『皿屋敷』と符合しない点も多々みられる。
同じく播磨を舞台に、近世の形態にちかい物語は「播州皿屋敷実録」に書きとどめられるが、これは成立年代不詳(あるいは江戸後期)のものである。
尼崎のお菊伝説[編集]
青山播磨守の家臣・喜多玄蕃の屋敷に奉公していたお菊が、食事の中に針が混じっていたことを理由に折檻され井戸へ投げ込まれた。
その後お菊の最後の姿に似た虫が大量に現れ、玄蕃の家を呪い滅ぼしたという。
戯曲『番町皿屋敷』[編集]
岡本綺堂による1916年(大正5年)作の戯曲。
怪談ではなく悲恋物語の形を取る。
旗本青山播磨と腰元は相思相愛の仲であったが身分の違いから叶わない。
やがて播磨に縁談が持ち込まれる。
彼の愛情を試そうとしたお菊は青山家の家宝の皿を一枚割るが、播磨はお菊を不問に付す。
ところが周りの者が、お菊がわざと皿を割った瞬間を目撃していた。
これを知った播磨は、自分がそんなに信じられないのかと激怒、お菊を斬ってしまう。
そして播磨の心が荒れるのに合わせるかのように、青山家もまた荒れ果ててゆくのだった。
1963年(昭和38年)に大映で市川雷蔵、藤由紀子主演で『手討』が製作された。
ただしすぐお菊の後を追う形で、青山播磨も切腹に向かう所で終わる、より悲恋物語の性格が強い作品である。
ビデオ、DVDになっている。
落語の『皿屋敷』[編集]
落語の中に皿屋敷を題材にした話がある。
題名は『お菊の皿』、またはそのままの『皿屋敷』。
町内の若者達が番町皿屋敷へお菊の幽霊見物に出かける。
出かける前に隠居からお菊の皿を数える声を九枚まで聞くと死んでしまうから六枚ぐらいで逃げ出せと教えられる。
若者達は隠居の教えを守り、六枚まで聞いたところで皿屋敷から逃げ出してきたが、お菊があまりにもいい女だったので若者達は翌日も懲りずに皿屋敷へ出かけていく。
数日もすると人々に噂が伝わり、見物人は百人にまで膨れ上がった。
それだけ人が増えると六枚目で逃げるにも逃げられず、九枚まで数える声をまで聞いてしまう。
しかし聞いた者は死なず、よく聞くとお菊が九枚以降も皿を数え続けている。
お菊は十八枚まで数えると「これでおしまい」と言って井戸の中に入ろうとするので見物人の一人が「お菊の皿は九枚と決まっているだろう。
何故十八枚も数えるんだ」と訊くと、お菊は「明日は休むので二日分数えました」と答えた。
より古典的なところでは、旅の僧がお菊の霊を慰めようとして「なんまいだー(何枚だ)」と念仏を唱えると、お菊が「どう勘定しても、九枚でございます」と返す、という駄洒落(だじゃれ)落ちのものもある。
脚注[編集]
補注[編集]
^a b 豊竹座の浄瑠璃は、この金子吉左衛門作の歌舞伎の系統にあたるという。
^ 管領山名宗全は、細川家の家宝の唐絵の皿を召し上げて足利将軍家に献上しようとするが、皿の1枚が21年前に盗まれていた。その探索に、当時はまだ細川の若殿だった巴之介と、舟瀬三平と、当時は恋人のお菊が遣わされる。森山 1991, 通号6-7頁
^ 盗人は、唐絵を写して模作したいがために1枚を盗んだ楽焼家弥五兵衛、つまりお菊の父であった。弥五兵衛は盗みの功により、武士の地位を回復し、宗全の家来に召し抱えられた。森山 1991, 通号6-7頁
^ 異聞もあり、後述の蜀山人『石楠堂随筆』(1800年)では女が裸体で縛られたような小虫が葉先や枝について死んでいる、としており、『耳嚢』では、タマムシやコガネムシのような虫で、飛んでいるのを捕獲して虫眼鏡で調べると、女が縛られた模様がある、とする。
^ 現在の姫路城が出来る前
^a b 『姫路城史』(1952年)では太田垣主殿佐、『播磨鏡』では大田垣主殿佐。(『日本の皿屋敷伝説』p.111)。『竹叟夜話』の「小田垣」という改称は、実名をはばかってのものと思われる。太田垣が山名持豊によって青山に配されたのは1441年(嘉吉元年)、その後1443年(嘉吉3年)には赤松教祐・則尚に攻められ但馬竹田城に逃れている。2年という短い期間であったが、妾を囲って政務に不熱心であったという。
^ 竹叟夜話と同等の話、およびお菊神社の由来は、『播陽万宝智恵袋』(宝暦十年 1760年編纂)にも記載される。森山 1991, 通号6、6, 10頁
出典[編集]
^a b c d e Hyogo Prefectural Museum of History. “播州皿屋敷―姫路のお菊井戸―”.歴史博物館ネットミュージアム:ひょうご歴史ステーション.2014年5月閲覧。
^ 18世紀末〜19世紀初頭に姫路在住の福本勇次が著した『村翁夜話集』に「是ハ近年祭リヨシ」と記される
^a b 森山 1991, 通号5-頁
^ 諏訪 1974, pp. 148
^ 諏訪 1974, pp. 148
^ 諏訪 1974, pp. 146 153
^a b 伊藤 2010, 「播州姫路の皿屋敷伝説」『日本の皿屋敷伝説』、100 - 115頁
^ 相坂 2009, 『ジャコウアゲハ(お菊虫)と播州皿屋敷の民俗文化誌』、24頁。
^ 姫路市ホームページ「姫路市 | 姫路の雑学」。
^a b 森山 1991, 通号6、10頁
^ 『姫路城史』
^ 『日本の皿屋敷伝説』、p.87。
^ 「江戸の皿屋敷伝説」『日本の皿屋敷伝説』pp.81 - 94。
^ 越智 1970, p. 1
^ 中山 1933, 「紅皿塚から皿屋敷へ」[要ページ番号]
^ 今野 1969。154頁に原典を『竹叟夜話』と指定;164頁に読売新聞社社会部 編『わたくしたちの伝説』、1959年 (280頁)よりの要約を転載。
^ 今野 1969, p. 154
^ 『古典落語大系 第八巻』p.153。
出典・参考文献[編集]
相坂耕作、赤松の郷昆虫文化館編、 『ジャコウアゲハ(お菊虫)と播州皿屋敷の民俗文化誌: 路市「市蝶」制定20周年記念。ジャコウアゲハ(お菊虫)のフォークロア』 路城下町街づくり協議会、2009年。
伊藤篤 『日本の皿屋敷伝説』 海鳥社、2001年。ISBN 4-87415-402-6。
江國編、「皿屋敷」 『古典落語大系』第八巻 上方編巻 三一書房、1989年、145-153頁。
越智治雄「皿屋敷の末流」、『文學』 第38(9)巻1-18頁、1970年。
越智治雄『明治大正の劇文学: 日本近代戯曲史への試み』塙書房、1971年、55頁。に収録
小二田誠二 (Konita, Seiji)[books.google.co.jp/books?id=Pb4fAQAAMAAJ 「実録体小説の原像--「皿屋舗弁疑録」をめぐって」]、『日本文学 / 日本文学協会 編』 第36巻第12号48-59頁、1987年。ISBN 4404020112。
今野円輔 『日本怪談集 幽霊篇』上、中央公論新社〈中公文庫〉、2004年(原著1969年)。ISBN 978-4-12-204464-7。
中山太郎, 1876-1947、「紅皿塚から皿屋敷へ」『古典落語大系』 一誠社、1933年、169-184頁。
橋本政次 『姫路城史』上巻巻 姫路城史刊行会、1952年。
三田村鳶魚 (Mitamura, Engyo)、「第3章」『足の向く儘』 国史講習会、1921年、427-頁。
『江戸ばなし』1巻、「史實と芝居と」、青蛙房、1966年
森山重雄「皿屋敷の系譜と『彩入御伽草』」、『(季刊)江戸文学』 (ぺりかん社) 第通号6巻2-17頁、1991年。ISBN 4-8315-0523-4。; 「-続-」、通号7、38-49頁
読売新聞社社会部編『わたくしたちの伝説』読売新聞社、1959年、280-頁。
外部リンク[編集]
『皿屋敷』田中貢太郎:新字新仮名(青空文庫)
『番町皿屋敷』岡本綺堂:新字旧仮名(青空文庫)
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