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4 感染症の歴史 病原体が生物の体に侵入、定着・増殖して感染

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#ккк #感染症 #伝染病

天然痘[編集]

詳細は「天然痘」、「天然痘ウイルス」、「フレンチ・インディアン戦争」、および「エドワード・ジェンナー」を参照

天然痘にかかった子ども(1975年、バングラデシュ)

天然痘は、有史以来、高い死亡率、治癒しても瘢痕を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症である。

痘瘡ともいい、天然痘ウイルスによる高熱、嘔吐、腰痛があり、全身に発疹する。

すでに1万年前にはヒトの病気であったらしい。

天然痘で死亡したと確認されている最古の患者は古代エジプトの第20王朝のファラオラムセス5世であり、ミイラの頭部に天然痘の痘庖があることを確認している。

かれは紀元前1157年に死亡したとみられる。

165年のパルティア遠征中のローマ軍のなかで発生し、こののちローマ帝国内で流行したといわれる伝染病は、こんにちでは天然痘であると考えられており、これによりローマは深刻な兵力不足に陥って、国力衰亡の原因のひとつとなった。

天然痘は4世紀以来、アジア各地で流行している。中国では、ジェンナー(後述)による種痘(牛痘)が試みられる前から、発疹の瘡蓋(かさぶた)を用いた人痘がさかんにおこなわれていた。

16世紀にスペインがアメリカ大陸を侵略した際、このウイルスを持ち込み、奴隷労働とあいまって先住民人口が激減する不幸な事態となった。

W.H.マクニールは、エルナン・コルテスが1521年に600人弱の部下で数百万の民を擁するアステカ王国を軍事的に征服したのみならず、文化的、精神的にも征服しえたのは、コルテス一行が持ち込んだ天然痘ウイルスによってアステカ王国の首都で天然痘が猛威をふるっていたにもかかわらず、従来のアステカの事物はそれに対しまったく無力であったことに起因するとしている。

1533年のフランシスコ・ピサロによるインカ帝国の征服も、それに先だって中央アフリカから帝国内の現代のコロンビアの領域にもたらされた天然痘による死者が膨大なものであり、人口の60パーセントから94パーセントを失ったことによるとされる。

1526年にはインカ皇帝のワイナ・カパックや宮廷の臣下たちの大部分が天然痘がもとで死んでいるが、後継者とされたニナン・クヨチもまた天然痘で命を落としてしまった。

そのため王位をめぐる争いがアタワルパとワスカルの異母兄弟のあいだで起こった。

ピサロは、そこに付け込んだのである。

両帝国とも、馬や鉄器、火砲をもたない軍事的敗北の結果といわれるが、それ以前に天然痘が猖獗をきわめたことにともなう帝国側の戦闘力喪失が最大の要因であった。

17世紀前半には北アメリカ東部のインディアンで天然痘が流行している。

また、18世紀のフレンチ・インディアン戦争では、イギリス軍により生物兵器としてインディアン殲滅を目的に使用された例がある。

また、アメリカ独立戦争では、英国軍をカナダに追いつめてカナダがアメリカ合衆国領となる事態までとなったが、このとき独立軍に天然痘が流行したといわれる。

なお、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトも11歳のとき天然痘にかかり、その痕跡がいくつもあったといわれている。

種痘法を確立したジェンナー(1749-1823)

1721年、オスマン帝国で発達したトルコの人痘接種法がヨーロッパに伝わったが、これは天然痘それ自体の発病の危険をともなうものであった。

1798年、自らも人痘接種を受けたことのあるイギリスの医師エドワード・ジェンナーが牛痘にかかった者は人痘にもかからないという農婦の話を聞き、種痘を開発して8歳の少年に牛痘を接種した。

これが世界における予防接種のさきがけであり、一種の人体実験でもあった。

ジェンナーは自身の幼い子どもにも予防接種をおこない、また、種痘の乾燥保存に成功した。

これ以降は種痘の普及に伴い急速に天然痘の流行は少なくなったが、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンは顔にはっきりと痘痕が残っており、天然痘によるものとされている。

なお、アメリカ合衆国で最初に摂種を受けた人物のなかに第3代大統領のトマス・ジェファソンがいる。

天然痘は、1958年に世界保健機関(WHO)総会で「世界天然痘根絶計画」が可決され、根絶計画が始まった。

1970年には西アフリカ全域から根絶され、翌1971年に中央アフリカと南米から根絶された。

1975年、バングラデシュの3歳女児の患者がアジアで最後の記録となり、アフリカのエチオピアとソマリアが流行地域として残ったが、1977年、ソマリアのアリ・マオ・マーランを最後に天然痘患者は報告されておらず、3年を経過した1980年5月8日にWHOは根絶宣言を行った。

天然痘ウイルスは現在、アメリカとロシアのバイオセーフティーレベル4の施設で厳重に管理されている。

天然痘は、ヒトに感染する物の中では、人類が根絶した唯一の感染症である。


ジェンナーの種痘

人びとは牛痘を人間に植え付けることに抵抗感をもち、普及には時間を要した。

日本でも、過去には定期的な大流行を起すことで知られていた。

天平年間に遣唐使や遣新羅使を通じて侵入したと考えられる天然痘が西日本を中心に大流行し、737年(天平9年)、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した。

聖武天皇が東大寺大仏を建立した背景にも飢饉や政治的混乱とならんで悪疫の流行があった。

摂関政治が隆盛期をむかえた994年にも大流行して藤原道長の兄、藤原道隆、藤原道兼はともに天然痘のために死去したといわれる。

また、京都市百万遍に所在する浄土宗知恩寺(左京区田中門前町)は、京都に天然痘が大流行していた1331年(元弘元年)、後醍醐天皇の勅により百万遍念仏を行い疫病を治めたことから「百万遍」の寺号が下賜されたものである。

その後も歴史上の著名人物で天然痘に苦しんだ例は少なくない。

「独眼竜」の異名で知られる奥州の戦国大名、伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも天然痘によるものであった。

儒学者安井息軒、「米百俵」のエピソードで知られる小林虎三郎も天然痘による片目失明者であった。

16世紀に布教のため来日したイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、ヨーロッパに比して日本では全盲者が多いことを指摘しているが、後天的な失明者の大部分は天然痘によるものと考えられる。

なお、江戸時代にあっては、疱瘡除けの神として、さかんに源為朝の肖像が描かれ、「疱瘡絵」(赤絵)と呼ばれた。

これは、八丈島に疱瘡(天然痘)が流行しなかったのは、この島に流された為朝が疱瘡神を押さえ込む力があったためと信じられていたためであった。

また、源実朝、豊臣秀頼、吉田松陰、夏目漱石は顔にあばたを残し、上田秋成は両手の一部の指が大きくならず、結果的に小指より短くなるという障害を負った。

孝明天皇の急死は幕末の政局に大きな影響を及ぼしたが、これも天然痘によるものであったと記録されている。

天皇自身が当時かなり普及し始めていた種痘を嫌悪したために天然痘に対して無防備であったといわれているが、なお根強く暗殺説を唱える人もいる。

蘭学者の緒方洪庵は幼少時に発症しており、のちに種痘の普及による天然痘対策に尽力した。

これはやがて江戸幕府直轄の種痘所に発展し、のちの東京帝国大学医学部の前身となった。

1955年の患者を最後に、日本では天然痘は根絶されている。


コレラ[編集]

詳細は「コレラ」および「コレラ菌」を参照

"Le Petit Journal"(1912.12)
コレラを残忍な死神として描いている

コレラはコレラ菌による感染症で、突然の高熱、嘔吐、下痢、脱水症状が起こり、その感染力は非常に強く、これまでに7回の世界的流行(コレラ・パンデミック)が発生し、2006年現在も第7期流行が継続している。

最も古いコレラの記録は紀元前300年頃のものである。

そののち7世紀の中国、17世紀のジャワでもコレラと思われる悪疫の記録があるが、世界的大流行は1817年に始まっている。

コレラの原発地はガンジス川下流のインドのベンガル地方、およびバングラデシュにかけての地方と考えられる。

1817年にカルカッタで起こったコレラの流行はアジア全域とアフリカに達し、1823年まで続いた。

その一部は日本にもおよび、のちに「文政コレラ」とよばれたものである。

朝鮮半島経由か琉球経由かは明らかでないが、九州地方から東方向へひろがり東海地方にまでおよんだ。

このときは箱根より東には感染せず、江戸での被害はなかった。

1826年から1837年までの大流行は、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。

以降、1840年から1860年、1863年から1879年、1881年から1896年、1899年から1923年と、計6回にわたるアジア型コレラの大流行があった。

この大流行の背景には、産業革命によって蒸気機関車、蒸気船など交通手段が格段に進歩し、また、インドの植民地化をはじめ世界諸地域が経済的、政治的にたがいに深く結びつけられたことがある。

とはいえ、これほど短期間のうちに「風土病」から「パンデミー(世界的流行病)」へと一挙に広がって人類共通の病気となった例はめずらしい。

1831年、ドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルはコレラ禍のためにベルリンで死去しており、1832年にパリでコレラが流行した際には、辣腕政治家として知られたカジミル・ペリエ(フランス語版)フランス首相が死亡した。

このとき、パリでは毎日数百人もの人びとが罹病し、1,000人を越える患者が出る日もあった。

死亡率も高く、1日で800人もの人が命を失うこともあったという。

1832年4月、コレラが増えはじめたパリでは、だれかが毒を投げこんだという噂が飛びかい、毒殺犯人とみなされた人びとが民衆に暴行を受ける事件がおこっている。

この事件では数名が殺害されている。

コレラの流行した1830年代のヨーロッパでは至るところで毒殺説がささやかれ、なかには医師が疑われて殺害されたこともあった。

ロンドンでもパリでも、病気は道路と水路に沿って広がり、ことに貧民街での被害が著しかった。

19世紀前半のコレラの流行は、19世紀初頭以来の急速な都市化の進んだ時期でもあり、ヨーロッパの大都市はどこも劣悪な衛生環境にあった。

コレラの猖獗によって、感染症は「人間の病」である以上に「社会の病」であることを多くの人が痛切に感じたのであり、そのなかから、社会の健康を考える公衆衛生学や上下水道の整備や道路拡幅なども取り込んだ近代的な都市工学という学問分野が生まれた。

コレラ病棟(1892年、ハンブルク)

日本では2回目の世界的流行時には波及を免れたが、3回目の流行は再び日本におよび、安政五カ国条約が結ばれた1858年から3年にわたって全国を席巻する大流行となった。

いわゆる「安政コレラ」で、検証には疑問が呈されているものの、江戸だけで10万人が死亡したといわれる。

このときの流行は長崎からはじまり、江戸で大流行して箱館にも広がった。

手当としては、芳香酸と芥子泥(からしでい)を用いるのがよいとされた。

文久2年(1862年)には、残留していたコレラ菌により再び大流行し、56万人の患者が出て、江戸では7万3,000人が死亡した。

以後、明治に入っても2、3年間隔で万人単位の患者を出す流行が続き、1879年、1886年には死者が10万人台を数えた。

このうち、1879年の流行については、それに先だつ1877年から78年にかけてコレラの流行があったため、1878年8月、各国官吏・医師も含めて共同会議で検疫規則をつくったものの、駐日英国公使のハリー・パークスが、日本在住イギリス人はこの規則にしたがう必要なしと主張しており、翌79年の初夏にコレラが再び清国から九州地方に伝わり、阪神地方など西日本で大流行したものであり、この年、これに関連してヘスペリア号事件が起こっている。

ヘスペリア号事件とは、西日本でのコレラ大流行を受けた日本当局が、1879年7月、ドイツ汽船ヘスペリア号に対し検疫停船仮規則によって検疫を要求したところ、ドイツ船はそれを無視して出航、砲艦の護衛のもと横浜港への入港を強行したという事件であり、このためコレラは関東地方でも流行して、この年だけで10万9,000人の死者が出たというものである。

この事件は、国民のあいだに、不平等条約を改正して領事裁判権を撤廃しなければ国家の威信は保たれず、国民の安全や生命も守ることができないという認識を広める契機となり、条約改正要求の高まりをもたらした原因のひとつとなった。

日本がようやく海港検疫権を獲得するのは、1894年に陸奥宗光外相下でむすばれた日英通商航海条約などの改正条約が発効した1899年のことである。

なお、日本では、最初に発生した「文政コレラ」のときには明確な名前がつけられておらず、他の疫病との区別は不明瞭だったが、流行の晩期にはオランダ商人から「コレラ」という病名であることが伝えられ、それが転訛した「コロリ」や、「虎列刺」「虎狼狸」などの当て字が広まっていった。

それまでの疫病とは違う高い死亡率、激しい症状から、「鉄砲」「見急」「三日コロリ」などとも呼ばれた。

コッホ(1843-1910)

1884年にはドイツの細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見され、医学の発展、防疫体制の強化などとともに、アジア型コレラについては世界的流行は起こらなくなった。

ただし、アジア南部およびアジア東部においてはコレラの流行が繰り返され、中国では1909年、1919年、1932年に大流行があり、インドでは1950年代までつづいて、いずれも万単位の死者を出すほどであった。

一方、エルトール型コレラは1906年にシナイ半島(エジプト)のエルトールで発見された。

この流行は1961年から始まり、インドネシアを発端に、発展途上国を中心に世界的な広がりをみせており、1991年には南米のペルーで大流行が発生したほか、先進諸国でも散発的な発生がみられた。

1977年、日本でも、和歌山県下で感染経路不明のエルトール型の集団発生が生じた。

また、1992年に発見されたO139菌はインドとバングラデシュで流行している。

なお、2007年1月初め、コンゴ共和国の首都ブラザビルから500キロメートル離れた石油積出港ポアンノアーレにおいて、コレラの発生が確認された。

コレラの流行を防止するため、下水道の整備など大都市における公衆衛生政策が発達し、ゴミ箱が普及し、検疫体制が整備されて、その多くは現代にも引き継がれている。

また、科学的な疫学も1854年のロンドンでのコレラ大流行において、ジョン・スノウが公衆の井戸水が原因であると指摘したことがはじまりである(後述)。

コレラは反面、衛生的な近代都市の生みの親となったのである。

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