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ハンセン病[編集]
詳細は「ハンセン病」、「忍性」、および「聖ラザロ騎士団」を参照
歴史上では「レプラ」、「らい病」などとよばれてきたハンセン病は、らい菌によって引き起こされる感染症である。
感染力は弱く、進行も遅い病気で、皮膚と末梢神経が冒される。白い斑点が皮膚上に現れるほか、患部が変形する。
顔面が変形したり、指が欠損するといった症状を引き起こすために、世界史上では、感染力が弱く致死性に乏しいという病気の実態以上に、人びとに恐怖感をもってとらえられてきた。
イエス・キリストがハンセン病患者に触れて治癒させた奇跡の記述が『新約聖書』にあり、イエスの絶対愛(アガペー)のあり方を物語っている。
日本では、光明皇后が医療施設である「施薬院」を設置して、毎年諸国に命じて薬草を買い取り、らい病の予防と救護に力をそそいだといわれる。
ハンセン病に冒されたウォリングフォードのリチャード(英語版)
ヨーロッパでは13世紀をピークとして流行し、各地に隔離施設ができた。
西暦300年ころ、ローマ教会が患者救済のため、ラザロの寓意よりなる「ラザレット」を設け、患者の救済・保護がはじまった。
民族大移動などによってヨーロッパ中に広がったためヨーロッパ各地にラザレットが設けられた。
中世ヨーロッパでは、ハンセン病は「ミゼル・ズフト」(貧しき不幸な病)と称された。
教会によって「らい院」が多くの場所に設置されたが、フランク王国のカール大帝の勅令などによって、強制隔離政策もしばしば行われた。
また、当時のローマ教会は旧約聖書にもとづく「ツアーラハト」の措置として「死のミサ」や「仮装葬儀」など祭儀的な厳しい措置が行われることも多かった。
アッシジのフランチェスコ(1181・82-1226)
生前にフランチェスコを描いたといわれる肖像
一方、1209年にアッシジのフランチェスコによって組織された「小さき兄弟の会」(フランシスコ会)はイタリア半島中部のアッシジに「らい村」を建設した。
そこでは、1つの共同自治が目指され、聖書の精神にもとづく救済がおこなわれた。
十字軍の東方遠征においては、ハンセン病に罹患した兵士を看護するためラザロ看護騎士団がパレスティナで組織され、イェルサレムのらい院では患者の救済がおこなわれている。
なお、英邁で知られるエルサレム王国の国王ボードゥアン4世はハンセン病患者として知られる。
日本では、古代・中世にはこの病気は仏罰・神罰の現れたる穢れと考えられており、発症した者は非人身分に編入されるという不文律があった。
これにより、都市では重病者が各地の悲田院や奈良の北山十八間戸、鎌倉の極楽寺などの施設に収容され、衣食住が供された。
北山十八間戸や極楽寺は、「非人救済」に尽力した忍性らによって開かれた施設である。
戦国武将大谷吉継はハンセン病患者であったことが知られ、面体を白い頭巾で隠して戦場に臨んだことはよく知られる。
また、茶会での自らに対する石田三成の振る舞いに吉継が感激し、関ヶ原の戦いでは三成に味方をする決意をしたとされるエピソードも著名である。
江戸時代には、発症すると、家族が患者を四国八十八ヶ所や熊本の加藤清正公祠などの霊場へ巡礼に旅立たせることが多かった。
このため、これらの地に患者が多く物乞をして定住することになった。
旅費がない場合は単に集団から追放され、死ぬまで乞食をしながら付近の霊場巡礼をしたり、患者のみで集落をなして勧進などによって生活した。
貧民の間に住むこともあり、その場合は差別は少なかった。横浜をはじめとする乞食谷戸(こじきやと)はその一例である。
また、患者が漁にでるとマグロがよく獲れるという迷信が各地にあり、患者には漁業に携わる者も少なくなかった。
明治維新以降、近現代になると、そうした患者の寺社周辺などへの集住状態を解消すべく療養所への隔離政策が行われ、そのなかで「救らい」の名目で近世までとは異なった形での患者の迫害が生じた。
1875年、らい菌の発見者であるノルウェーのアルマウェル・ハンセンが英文で初めて発表をおこない、そののち感染症としての感染力の弱さが明らかとなり、また、治療法が確立してからも患者や既に治癒して身体の変形などの後遺症を持つのみとなった元患者への強制隔離政策は続き、非人道的な人権侵害が行われた。
2002年に、小泉純一郎首相が公式に謝罪し、治療法確立後も強制隔離をつづけた国の責任を認めて元患者との和解がようやく成立した。
しかし、今もなお病気に対する正確な知識の欠如から、後遺症に対する差別に苦しむ人が多い。
コロンブス交換と梅毒[編集]
詳細は「コロンブス交換」、「梅毒」、「大航海時代」、および「世界の一体化」を参照
コロンブス交換(Columbian Exchange)は、1492年ののち発生した東半球と西半球の間の植物、動物、食物、奴隷を含む人びとなど甚大で広範囲にわたる交換を表現する時に用いられる言葉で、1492年のクリストファー・コロンブスの新世界の「発見」にちなむ。
その結果、トウモロコシとジャガイモは18世紀のユーラシア大陸できわめて重要な作物となり、ピーナッツとキャッサバは、東南アジアや西アフリカで栽培されるようになるなど、世界の生態系、農業、文化の歴史において重大な出来事となった。
ただし、ここでは多くの感染症もまた交換されることとなった。
1498年のメディカル・イラスト
梅毒の原因には占星術が関係すると考えられた。
すなわち、コレラ、インフルエンザ、マラリア、麻疹、ペスト、猩紅熱、睡眠病(嗜眠性脳炎)、天然痘、結核、腸チフス、黄熱などが、ユーラシアとアフリカからアメリカ大陸へもたらされた。
免疫をもたなかった先住民はこれらの伝染病によって激減した。
アメリカ大陸には、スペインやポルトガルをはじめとしてヨーロッパ各地から多くの植民者がわたったが、スペイン王室は植民者に先住民支配の信託を与え、征服者や入植者に対し、その功績や身分に応じて一定数のインディオを割り当て、一定期間使役する権利を与えるとともに、彼らを保護してカトリックに改宗させることを義務づけた。
これがエンコミエンダ制である。
まもなく先住民(インディオ)を使役して鉱山で金や銀を掘り出し、カリブ海域ではサトウキビの栽培が始まった。
どちらも現地の人びとのためではなく、ヨーロッパ大陸における需要のための生産であった。
先住民は、過酷な労働条件と感染症のために激減し、深刻な労働力不足に陥った。
これを補うため、ヨーロッパ人は黒人奴隷をアフリカ大陸に求めて奴隷貿易がはじまった。
ここに西ヨーロッパ、西アフリカ、南北アメリカ大陸を結ぶ人とモノの貿易連鎖、いわゆる三角貿易が成立し、大西洋をはさむ4大陸のあいだに大西洋経済とよばれる世界システムが形成されていった。
一方、アメリカ大陸より旧大陸にもたらされた感染症には、人獣共通感染症であるシャーガス病、性病として知られる梅毒、イチゴ腫、黄熱(American strains)がある。
梅毒は、元来はハイチの風土病だったのではないかと考えられ、コロンブス一行が現地の女性との性交渉によりヨーロッパにもち帰ったとされる。
アジアへはヴァスコ・ダ・ガマの一行が1498年頃インドにもたらし、日本には永正9年(1512年)に中国より倭寇を通じて伝わったとされ、江戸時代初期には徳川家康の次男結城秀康も梅毒に罹患している。
日本で流行する前に琉球王国、とくにその花柳界で大流行し、古くから花柳界にいる人の罹患率が高かったので、梅毒は「古血」と称され、また、沖縄では梅毒患者のことを「ふるっちゅ」(古い人)と呼ぶようになった。
なお、梅毒は、ヨーロッパ諸国も介入した16世紀のイタリア戦争を通じてヨーロッパ各地に広がったため「ナポリ病」と称することも多い。
「コロンブス交換」は、アメリカ合衆国の歴史学者アルフレッド・クロスビーによって唱えられた用語である。
上述のように、それは、ヨーロッパとアメリカ大陸との相互の疫学的条件の均質化をうちに含んでいるが、これを、フランスのアナール学派に属する歴史家エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリは「細菌による世界の統一」という表現を用いて説明した。
ヨーロッパの疫病が新大陸で猛威をふるった顕著な例として、1545年から1548年にかけてのメキシコ(ノビスパニア)での大流行があり、このときメキシコ中央部では先住民(インディオ)の約8割が死亡したといわれる。
征服から1世紀経ったのち、メキシコの先住民の人口は征服直前のわずか3パーセントにすぎなかったという試算もある。
梅毒の治療薬としては、化学療法を唱えたドイツのパウル・エールリヒとエールリヒの研究所で薬学実験を担当していた日本の医学者秦佐八郎が1910年に発見したサルバルサンという有機ヒ素化合物が有名であり、これは合成物質による世界最初の化学療法剤であった。
また、サルバルサンの発見は、のちのペニシリン(1929年)やサルファ剤(1935年)などの抗生物質の発見をうながしたのである。
麻疹[編集]
詳細は「麻疹」を参照
麻疹ウイルス
一般にはしかといわれ、麻疹ウイルスによって感染する。
感染力はきわめて強く、高熱、咳、鼻水、全身性の発疹をともない、口中にコプリック斑と呼ばれる白い斑点ができる。
日本でも古くから知られ、平安時代以降の文献にしばしば登場する「あかもがさ」は麻疹であろうと考えられている。
正暦から長徳への改元のあった995年(正暦6年、長徳元年)に全国的な伝染病となって平安京を直撃、貴族も多数死亡して政治に混乱をきたした。
古来ほとんどの人が一生に一度はかかる重症の伝染病として知られ、かつては「命定め」とよばれて恐れられたため、全国各地に麻疹に関する民間信仰が伝わっている。
富山県高岡市では「はしか」が流行すると九紋龍の手形の紙をもらい、「九紋龍宅」と書いて門口に貼って病除けにした伝承がのこる。
神奈川県横浜市や大和市、藤沢市に点在する鯖神社(左馬神社、佐婆神社とも)を一日で巡る「七さば巡り」をおこなうと「はしか」や百日咳の病除けになるといい、愛知県や三重県ではアワビの貝殻を戸口につるして「はしか除け」をしたという。
江戸時代の庶民にとって、地震や火事とともに怖れられたのが感染症であったが、とくに疱瘡(天然痘)・麻疹(はしか)・水疱瘡(水痘)は「御役三病」と呼ばれて恐怖された。
麻疹根絶をかかげる世界保健機関(WHO)では現在、中国と日本を2つの問題国として名指ししている。
21世紀に入って、日本では数年にわたり、麻疹の集団感染がみられる。
後述するように、ポリオに対しては日本は世界的にみて優等生といえるほどの対策を講じて、その撲滅にほぼ成功したが、麻疹に関しては、世界的にみて「輸出国」として見なされることがあり、むしろ劣等生との評価がある。