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天皇は通常「(the) Emperor」と呼ばれる。その弐

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天皇の配偶者の称号と通称[編集]

日本では、一般に近現代までは貴人が正室以外の側室をもつことの方が当然と考えられていた。

したがって天皇には正室以外にも複数の側室がいたほか、正室すら二名をもつことができた(皇后と中宮)。

天皇の配偶者は、当初は出自に応じてそれぞれの称号が決まっていたが、後代になると寵愛の度合いによってこれが曖昧になり、さらに正規の称号を名乗る配偶者の地位自体が自然消滅すると、通称がこれにとって替わるようになることが増えた。

最初に側室をもつことを意図的に否定したのは大正天皇で、これ以降皇室でも一夫一妻制が定着した。

大宝律令制定の前

大后(おおきさき)

后(きさき)

大宝律令の制定から平安時代のはじめごろまで

皇后(おおきさき/おほきさい/こうごう)

妃(ひ)

夫人(ふじん)

嬪(ひん)

平安時代の初めから南北朝時代ごろまで

皇后

中宮(ちゅうぐう)

女御(にょうご)

更衣(こうい)

南北朝時代から江戸時代はじめごろまで

女御

上臈(じょうろう)

典侍(てんじ)

江戸時代はじめから明治維新まで

中宮

女御

典侍

明治天皇の時代

皇后

典侍

大正天皇以降

皇后

なお、史上10代8名いた女帝には、いずれも皇位にある間は正式な配偶者がいなかったこともあり、日本では独自に皇配の称号を定めたり通称が生じたりすることはなかった。


姓氏[編集]

天皇は氏姓および名字を持たないとされる。

「皇室#氏・姓・名字」も参照


皇位継承[編集]

昭和3年(1928年)11月、即位の礼の昭和天皇

詳細は「皇位継承」を参照

明治以後の歴代天皇については即位の礼を参照

皇位継承とは、皇太子などの皇位継承者が皇位(天皇の位)を継承することである。

諸外国における国王・皇帝の地位の継承を意味する王位継承・帝位継承とほぼ同義語である。

天皇の皇位継承は、大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定されている。

日本国憲法では「皇位は、世襲のものであつて、國會(国会)の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承(継承)する。(第2条)」とある。

その皇室典範には「皇位は、皇統に屬(属)する男系の男子が、これを繼承(継承)する。(皇室典範第一条)」とある。


憲法の規定[編集]

日本国憲法と大日本帝国憲法における天皇の規定について説明する。


日本国憲法における天皇[編集]

詳細は「象徴天皇制」を参照 現在、天皇については日本国憲法第1章に記されている。

日本国憲法において、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられる。

憲法の定める国事行為を除くほか、国政に関する権能を有しない。


大日本帝国憲法における天皇[編集]

詳細は「天皇制」および「天皇機関説」を参照 大日本帝国憲法においては、その第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められており、第4条で「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されている。

大日本帝国憲法を文言通りに解釈すると、天皇は大きな権力を持っていたように読める。

講学上は、憲法を絶対主義的に解釈する天皇主権説と立憲主義的に解釈する天皇機関説の争いがあったが、実際上の天皇の政治的指導権は、帝国憲法の母法国であるベルギーやドイツの君主よりも弱かった。


天皇の歴史[編集]

神武天皇版画。月岡芳年作

現在の歴史学においては天皇の発祥時期について明確な結論が出されていないが、少なくとも6世紀前半に即位した継体天皇以降、今上天皇に至るまでの皇室系譜は信憑性が高いため、現存する世界の王朝の中で日本の皇室が最長の歴史を有していることは確実視される。

天皇は日本の歴史において君主として重要な権威を有してきたが、実質的な統治権を行使していた期間は、天皇が存在していた期間と比べると短く、ほとんどが天皇以外の貴族や武家、官僚などによって行使されていた。

とりわけ鎌倉幕府成立以後は武家の棟梁の一族が代々世襲で征夷大将軍に就任し、少なくとも基本的に内政や外交では日本の最高権力者として君臨してきた。

しかし、天皇の地位がそれらの権力者によって廃されたことはなく、時の権力者も形式上はその権威を尊重し、それを背景に地位に就いていたことが多い。

例えば全国に支配権を敷いていた武家政権の棟梁である征夷大将軍への就任も形式上は天皇の宣下によって行われることになっており、その権力者は天皇の権威を利用し、その政敵を朝敵(天皇の敵)などに指定させ、その統治権を正当化することが多かった。

時にとりわけ大きな力を持った権力者が天皇という地位を廃止、あるいは簒奪を画策したことがあるとされているが、現在までに成功した例はないとされている。


神代と天皇の発祥[編集]

皇室の系図は『古事記』『日本書紀』を始めとする史書に基づいて作られ、その起源は神武天皇元年(紀元前660年)に即位した神武天皇、更にはその始祖である天照大御神に始まるとされている。

明治政府から戦時中までの日本では史書の記述を真実の歴史とする考えが支配的であり、国定教科書では神武天皇元年を紀元元年とする神武天皇紀元(皇紀)が採られていた。

しかし『日本書紀』は天武天皇の勅命により編纂されたものであり、歴史学的に証明の難しい神話・伝説などを多く含んでいる事から、皇室の祖先にまつわる伝承や事績や初期の天皇の存在については疑問視されている。

特に欠史八代の天皇については、古代中国の革命思想(讖緯説)に則って皇室の歴史を水増ししたのではないかと指摘する学説が主流となっているが実在説もあり、未だ決着を見ていない。

歴史学的に証明できる皇室の起源は、ヤマト王権の支配者・治天下大王(大王「おおきみ」)が統治していた古墳時代辺り迄である。

3世紀中葉以降に見られる前方後円墳の登場は日本列島における統一的な政権の成立を示唆しており、この時に成立した王朝が皇室の祖先だとする説や、弥生時代の近畿地方にあった場合の邪馬台国の卑弥呼の系統を皇室の祖先とする説、皇室祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。


古代の天皇[編集]

倭の五王[編集]

漢より印綬されたとされる倭奴国王印

詳細は「倭の五王」を参照 中国の史書における倭王の最古の記述は、南北朝時代の劉宋王朝に朝貢した「倭」の王たちである。

中国の史書『宋書』夷蛮伝・倭国条(倭国伝)には、5世紀に冊封された倭の五王(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。

これら五王を仁徳天皇・履中天皇から雄略天皇までの天皇に比定する諸説がある。

これら五王は、朝貢の見返りに、中国王朝から「倭国王」に封じられ、またしばしば安東将軍または安東大将軍に任じられて朝鮮半島における軍事的権威も付与されて、対外的にはこれらの称号を名乗っていたと推定される。

国内向けの王号としては、熊本県と埼玉県の古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風諡号とする)、「治天下大王」または「大王」(おおきみ)が用いられていたと考えられている。

『宋書』には、次のような倭王・武の上表文[11]が引用されている。

「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。

わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。

ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。

わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさおをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。

もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います。」

この頃までの代々の天皇の出自や系統については、記紀の記述通りの「万世一系」ではなく、倭国内各地の有力豪族の間での、複雑な権力移動が裏にあったのではないかという説もある。

例えば、雄略天皇の子の清寧天皇には後嗣がなく、履中天皇の孫である仁賢天皇・顕宗天皇が王位を継いだとされているが、実際は王位簒奪ではなかったかとの説もあり、またこれらの君主の実在を疑う説も否定されない。

また、仁賢天皇の子の武烈天皇も跡継ぎがなく、応神天皇の5世孫とされる継体天皇が王位に就いているが、これにより仁徳天皇の血統が途絶えていることから、王朝交代があったとする説もある。

しかし、実際にどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が中国史書を除けばはるか後代に編纂された『日本書紀』などに限られているため、前述の各説には異論もある。

当時は、一つの血統が倭国王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で倭国王位が継承されたとする考え(連合王権説)も見られる。


以降[編集]

不安定な基盤に乗っていた王統が確立したのが継体天皇の皇子である欽明天皇の頃(6世紀中期)だと言われている。

欽明天皇以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、7世紀初頭には冠位制度の導入など、天皇を中心とした政府が形成され始めることとなった。

この時期、隋の煬帝に対して「天子」と自称したと『隋書』に見える。

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