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天皇は通常「(the) Emperor」と呼ばれる。その参

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大化の改新から摂関政治まで[編集]

天皇を中心とした国家の枠組みが整い始めたのは、大化の改新からさらに4半世紀経った天武朝以後である。

大化の改新によって後の天智天皇である中大兄皇子が実権を握って以降、中国(唐)の法令体系である律令を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。

それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、天武天皇及びその後継者によって完結することとなった。

特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。

この時代に詠まれた柿本人麻呂らの和歌には、「大君は神にしませば」と天皇を神とする表現が見られている。

律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。

主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。

しかし、平安時代初期の9世紀中後期頃から、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政・関白に就任するようになった。

特に天安2年(858年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、これほど低年齢の天皇はそれまでに例がない。

このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。

摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことにともなって政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。

そのため、藤原北家(摂関家)が天皇の統治権を代行することが可能となったと考えられる。

また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。

もっとも、このような一連の現象は、逆に言えば、天皇という地位が制度的に安定し、他の勢力からその存立を脅かされる可能性が薄らいだことの反映でもある。

この頃、関東では桓武天皇5代の皇胤平将門が親族間の内紛を抑え、近隣諸国の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗ったといわれ、朝廷の任命した国司を追放し、関東7か国と伊豆に自分の国司を任命した(平将門の乱)。

これは、平将門による新国家の樹立とも言えるが、将門は京都の天皇(当時は朱雀天皇)を「本皇」と呼ぶなど、天皇の権威を完全に否定したわけではなかった。

また、将門の叛乱自体も、関東の武士たちの支持を得られず、わずか3か月で将門が戦死して新政権は崩壊した。


院政期[編集]

後鳥羽天皇図

平安後期に即位した後三条天皇は、摂関家を外戚に持たない立場だったことから、摂関の権力から比較的自由に行動することができた。

そのため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。

後三条天皇は、譲位後も上皇として政治の運営にあたることを企図していたという説がある。

この説が正しければ、白河院政に先立つ最初の院政ということもできるが、後三条天皇は譲位後半年足らずで崩御したのでその真意は謎のままである。

後三条天皇の子息の白河天皇は自らは退位して子息堀河天皇・孫鳥羽天皇をいずれも幼少で即位させた。

これは、父後三条天皇の遺志に反し、異母弟の実仁親王と輔仁親王を帝位から遠ざけるため、当時の天皇の父・祖父として後見役となる必要があったためである。

さらにその結果として、次第に朝廷における権力を掌握したため、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至った。

この院政の展開により、摂関家の勢力は著しく後退した。

院政を布いた上皇(院)は、多くの貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君(事実上の君主)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人として振る舞った摂関政治よりもいっそう強固なものであった。

治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏や源氏などの武士とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場につながった。

政治的には、院政期に権門勢家が国家からの自立の度合いを深めるに従い、天皇家という一権門の代表に滑り落ちた。

理念面では、歴代の天皇が神や仏といった超越者の力によって失脚に追い込まれるという説話や主張が度々見られるようになる。

仏法に敵対した罪によって地獄に堕ちたという逸話も広く人口に膾炙する。

殊に、後白河天皇のように、聖代の帝王と対比して仮借ない批判も投げつけられた者もいる。

即位灌頂により地位の正当化を弁証せざるを得ない程に、仏教の流布を背景にした相対化と脱神秘化が生じていた。

また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。

後鳥羽上皇はさらに西面武士を設置したが、承久の乱の敗北により廃止された。

承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、時には幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。

時に、両統迭立の時代になると、神孫為君の論理に安住出来なくなり、徳治と善政を標榜するようになる。

花園天皇は「皇胤一統」の論理に寄りかかる事を戒め、国王としての徳の涵養を力説している。

また同じく儒教精神から、後鳥羽上皇のように『承久記』や『六代勝事記』によって激しく批判、失脚の正当化がされる事はあっても、天皇という制度が否定される事は個々の天皇に対して激しい攻撃がなされた中世期にあってもなかった。

それは、儒教的徳治論の核心をなしていた易姓革命思想は、皇位継承者の中でも徳の高い人物が就くべき、徳のある人物が政治を行うべきという論理に姿を変えて日本に定着する事になった。

院政はこの後江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から南北朝時代の後円融院政までの約250年間とされている。

後円融上皇の崩御後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も足利義満の手でほとんどすべて幕府に接収され、貴族たちも多くは室町殿と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い朝廷も政府としての機能を失った。


鎌倉・室町時代[編集]

後醍醐天皇図

中世の国家体制については、一般的には天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴付けられるが、公家と武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論も提出されているなど学説も多様である。

荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。

しかし承久の乱(承久3年(1221年))以降の天皇の権力的な側面の失墜は著しく、蒙古襲来に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。

武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。

皇室もまず大覚寺統と持明院統に分裂し、さらにおのおのが再分裂した(南北朝時代)。

鎌倉幕府の崩壊後、一時大覚寺統傍流の後醍醐天皇による天皇親政(建武の新政)が試みられたが、二条河原の落書が風刺した世相の混乱もあり、足利尊氏の離反によって終止符を打たれた。

しかしその後の内乱を通じて南北両朝が並立し、足利方の北朝が南朝を吸収することで収拾された。

なお、はるか後の明治時代になって、この時代の北朝と南朝のいずれが正統であるかという議論(南北朝正閏論)が起こっており、現在の皇室は北朝の系譜であるものの、神器を保有した南朝を正統とすることで決着している。

また、室町幕府3代将軍足利義満は、自分の子義嗣を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったと言われるが、義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府4代将軍義持が固辞しており、真相は定かではない。

戦国時代末期には京都での天皇や公家の窮乏は著しかったとされているが、有力戦国大名や織田政権・豊臣政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後も制度として継続する。


江戸時代[編集]

江戸時代においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。

また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限された。

しかしながら公家は実権は失っていたものの茶道・俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に努め、天皇は改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や大名の官位も、これまでと同様に全て天皇から任命されるものであった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。

江戸時代後期には光格天皇が父親の閑院宮典仁親王に太上天皇の追号を送ろうとしたが、天皇に即位しなかった者への贈位は前例がないとして反対した幕府の松平定信と衝突する尊号一件と呼ばれる事件が発生した。

しかし18世紀後半から、征夷大将軍の権力は天皇から委任されたものであるから、将軍に従わなければならないとする大政委任論が学界で提唱されるようになり、将軍の権威付けとともに天皇の権威性も見直されていくようになっていった。

そうした運動が幕末の尊皇攘夷運動へと繋がった。


明治維新[編集]

孝明天皇

幕藩体制が揺らぎ始めると、江戸幕府も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威が高められていく。

ペリー来航に伴う対応について、幕府は独断では処理できず、朝廷に報告を行った。

このことは前例にないことであった。

この時の天皇は孝明天皇である。

このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、公武合体により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。

しかしこの画策は失敗し、薩摩・長州を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。

幕府はその機先を制して大政奉還を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は鳥羽・伏見で官軍と衝突し、内戦となった。

その過程で北海道函館では、榎本武揚らによって一時共和制が宣言される(「蝦夷共和国」)。

「蝦夷共和国」は選挙によって大統領(総裁)を選出したが、官軍に程なく平定された。

この戊辰戦争を通じて倒幕に成功した大久保利通らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の太政官制度によって運営した。

しかし征韓論政変によって参議から下野した板垣退助らが自由民権運動を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、政府は大日本帝国憲法を発布し、議会と内閣制度を発足させた。

これにより日本は、西ヨーロッパ諸国に倣った立憲君主制に移行したが、大日本帝国憲法と同時に制定された皇室典範は、内閣や国会も改廃できない「皇室の家法」とされ、天皇は国民統治の神権的機関として利用されるようになる。

なお天皇を国家元首あるいは象徴に戴く日本の政治体制について、現在は一般にも学術的にも「天皇制」が広く用いられているが、この言葉はコミンテルンが最初に使い始めた用語であるとして忌避される事がある。

従来は国体と称された。


明治以降[編集]

明治天皇

1898年(明治31年)には、第一次大隈重信内閣の文部大臣尾崎行雄が、ある教育会の席上で藩閥勢力の拝金主義を攻撃した演説で「日本で共和制が実施されれば、三井・三菱は大統領となるだろう」と述べたため問題となり、君主制の下にあって共和制を想定することは不敬にあたるとして辞任に追い込まれた(共和演説事件)。

その背景には反大隈勢力の桂太郎派の画策があったと言われるが、後任の文相には犬養毅が任命された。

1911年(明治44年)には大逆事件が生じ、時の政権から社会主義者弾圧の口実に使用され、明治天皇を暗殺しようとしたとして幸徳秋水ら12人が死刑に処された。

この事件は当時の多くの文化人にも衝撃的な影響を与えた。

徳冨蘆花は、「謀反論」を書き、謀反を恐れてはならないとし、石川啄木は「時代閉塞の現状」への宣戦布告を行ったが、永井荷風はこれを機に社会的関心から意識的に遠ざかるようになった。

その後、2度にわたる憲政擁護運動を経て、大正デモクラシーと言われるように言論界も活況を呈するようになる。

大正デモクラシーの時期には、君主制を自由主義的に解釈する吉野作造の民本主義なども現れた。

しかし、1925年(大正14年)には普通選挙法と同時に治安維持法が公布され、国体の変革を包含する言論や運動が禁止された。

1935年(昭和10年)、美濃部達吉はそれまで学会で主流だった天皇機関説を主張したことで貴族院で攻撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。

政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在が利用されることとなった。

世界恐慌の後、五・一五事件、二・二六事件を踏まえ、軍部が擡頭し天皇の存在を利用する。

明治憲法において軍の統帥権は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、関東軍は政府や軍の方針を無視し満洲事変等を引き起こした。

また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え軍部大臣現役武官制や統帥権干犯問題、国体明徴声明を通じて勢力を強めていく。

この頃には、津田左右吉らの日本古代史学者が、神話は歴史的事実とは異なるとしただけで職を追われるようになった。

それが頂点に達したのは太平洋戦争(大東亜戦争)時であり、1938年(昭和13年)の国家総動員法が発令された頃より、現人神と神格化され、天皇を中心とした戦時体制が作られた。

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