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天皇は通常「(the) Emperor」と呼ばれる。その四

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第二次世界大戦終結後[編集]

昭和天皇の退位と天皇制廃止論[編集]

昭和天皇(右)とマッカーサーの会見で(昭和20年(1945年)9月27日)。

この写真を掲載した各新聞は内務省より発禁処分を受けたが、GHQの命令で解除された。

第二次世界大戦の終戦後、連合国(UN)の間では天皇を、枢軸国の国家元首として処罰し、君主制を廃止すべきだという意見(天皇制廃止論)が強かった。

しかし、日本政府がその維持を強く唱え、ダグラス・マッカーサー元帥、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本の占領行政を円滑に進めるため、また共産主義に対する防波堤としても君主制を存続させたが、国家元首としての地位は日本国憲法に明記させていない。

これと似たような例があり、ベルギーの場合レオポルド3世は対独戦での敗戦の責任を追及されて国王支持派と反国王派に分かれたため、国家の分裂を避けて君主制を維持するためボードゥアン1世に王位を継承した。

しかし日本の皇室との最大の違いは在命中に退位した事である。

昭和天皇の戦争責任についても追及すべきとの意見が強くあったが、アメリカの外交方針により、占領当局は追及しないこととした。

そして、その外交方針を受けて、アメリカは天皇を捕虜として管理し、さらにその捕虜を通して内閣総理大臣及び最高裁判所長官の任命に関与し、日本の民主化を管理する計画書を策定した。

また、国内の民間には天皇をめぐる各種の意見が生じたが、津田左右吉なども天皇自体の存在は否定しないと言明した。

天皇の廃位を唱える見解や昭和天皇の退位と高松宮を摂政として皇太子の即位により元号を改正するのが妥当とする意見を昭和天皇の弟の三笠宮崇仁親王、要人では近衛文麿・木戸幸一・南原繁・佐々木惣一・中曽根康弘が唱えたが、一部にすぎなかった。

昭和天皇自身は退位の意向を示したが、かえって戦争責任を認めることになるとして周囲から強い反対があり、また昭和天皇擁護派である吉田茂とダグラス・マッカーサーの強い反対で撤回した。

マッカーサーは駐日イギリス大使アルバリー・ガスコインとの会談にて「私は天皇の退位を認めるつもりはない。

天皇には義務として現在の地位に留まってもらうよう求めるつもりだ」と述べた。

天皇退位論への反応は天皇制存続支持:90.3% 、天皇留位支持:68.5%、皇太子への譲位:18.4%、退位で天皇制廃止:4.0%であった。

この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。

今まで現人神とされ、写真も「御真影」等と呼ばれていた天皇が、しかも腰に手を当てた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。

なお、この時は複数の写真が撮影されており、中には天皇がソファに深く腰を下ろしてくつろいでいる姿もあったが、GHQは意図的に、天皇の権威を最も失墜させる写真を選択した。


「人間宣言」[編集]

1946年(昭和21年)1月1日、新日本建設に関する詔書(いわゆる人間宣言)が官報により発布された。

詔書の冒頭において五箇条の御誓文を掲げており、1977年(昭和52年)8月23日の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的であった。

この詔書は人間宣言と呼ばれるが、「人間宣言」は詔書の6分の1程度であり、戦時中に絶対神化されたことを否定しただけあり天皇の神話そのものは否定していない。

この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎され、退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象が改善されたが、日本人にとっては当たり前のことを述べたものであり、この詔書が日本でセンセーションを巻き起こすことはなかった。

1946年(昭和21年)1月1日、この詔書について新聞各紙の第一面で報道されたが、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、いわゆる人間宣言にはほとんど触れていなかった。


巡幸[編集]

昭和天皇はその後、日本全国各地への巡幸を始めたが、多大な犠牲者を出した地上戦が行われた上、更に日本本土より切り離されて連合軍の直接統治下に置かれた当時の沖縄県は対象とされなかった。

この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられたが、1947年(昭和22年)にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった(国旗の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。

沖縄行幸は昭和天皇の悲願であったようであり、晩年の病に際しそのことに触れている(昭和天皇#行幸に詳しい)。


日本国憲法下の天皇の法的地位[編集]

象徴天皇制も参照。


国籍[編集]

日本国には、次の通り、天皇の国籍を明記した憲法も法律もない。

日本国憲法第十条に「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」とあり、それを、国籍法第一条で「日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる。」と受けている。

その法律に、天皇が日本国籍を有する要件であるところの日本国民であるという記載は無い。

また、日本国の国籍法第四条では、同法に従って日本国籍を取得している日本国民に対して、日本国民でない者(以下「外国人」)というと定めている。

国籍法(出生による国籍の取得)第二条 子は、次の場合には、日本国民とする。

出生の時に父又は母が日本国民であるとき。

出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であつたとき。

日本で生まれた場合において、父母がともに知れないとき、又は国籍を有しないとき。

国籍法(帰化)第四条  日本国民でない者(以下「外国人」という。)は、帰化によつて、日本の国籍を取得することができる。

2 帰化をするには、法務大臣の許可を得なければならない。

一方、研究者による憲法論においては、天皇が日本国籍を有する前提で、天皇が「主権者としての国民」「人権享有主体としての国民」に該当するか否かが論じられており、憲法論の皇統譜についての箇に「日本国籍を有するものでも戸籍に記載されない唯一の例外に天皇および皇族がある」という記載がある。


天皇に対する裁判権[編集]

刑事裁判権については、皇室典範第21条が「摂政は、その在任中、訴追されない」と規定することから、いわゆる勿論解釈として、天皇については当然に刑事裁判権が及ばないものと解されている。

民事裁判権については、最判平成元年11月20日民集43巻10号1167頁が、「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であることにかんがみ、天皇には民事裁判権が及ばないものと解するのが相当である。

したがって、訴状において天皇を被告とする訴えについては、その訴状を却下すべきものである」としている。


天皇と宗教[編集]

神道との関係[編集]

「国家神道」および「国体」も参照 『古事記』、『日本書紀』などの日本神話によると日本を創造したとされる神のイザナギとイザナミの7代目に当たる子孫が初代天皇の神武天皇とされているため、古代から神として祀られたり、天照大神を祀る伊勢神宮や宮中三殿を中心とした神明神社が代々皇室によって信仰されていたなど深く関わりがあった。

幕末となると尊王攘夷派や討幕派により天皇が現人神と神格化されるようになり、その後、幕府と朝廷で国家分裂による近代化の妨げや欧米諸国の介入を危惧した明治政府によりその思想が受け継がれ、国民統合の支柱として天皇を神格化した国家神道が作り上げられる。

当初は内閣制度導入など民主化に向かうにあたっての国全体の象徴的な存在であったが、昭和初期になると軍部が権力を持ち始め、軍部大臣現役武官制により軍部に内閣が掌握されるとプロパガンダの一環として現人神としての天皇が利用されることになる。

戦後はGHQにより国家神道は解体され、昭和天皇による人間宣言がなされたが、現在においても古代からの伝統としての神道は残っており、天皇を始めとした皇室内で新嘗祭や宮中祭祀である国の安泰を祈願する四方拝や祈りなどが執り行われている。


仏教との関係[編集]

「日本の仏教」も参照 『日本書紀』によると552年に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が欽明天皇に献上され仏教が初めて伝来したとされている。

仏教が伝来した際に仏教を信仰の可否については家臣達により議論されることになり、仏教容認側の蘇我氏と反対側の物部氏との間で可否を巡って対立し始め、用明天皇の後継者争いに繋がり、物部氏が滅ぼされると仏教信仰に傾き、物部氏討伐軍にも加わっていた用明天皇の第二皇子である聖徳太子により法興寺や法隆寺が建立され儒教や仏教の思想が反映された十七条憲法が作られるなどし、皇室は仏教と深い繋がりを持っていく。

また、伝統的に天皇自ら寺を建てるようになり、天武天皇は大官大寺、持統天皇は薬師寺を建立するなどし、聖武天皇の代に入ると鎮護国家という政策が盛んになり、国情不安を鎮撫するために国分寺を各地に作り、東大寺が建立される。

平安時代に入るとこれらの寺院群が政治的な権力を持つことになり、それが桓武天皇により平安京への遷都へと繋がり、日本古来の仏教と対抗させるために空海と最澄を遣唐使とともに唐に送り密教を学ばせ、空海は真言宗、最澄は天台宗を開き、それぞれ空海は高野山を、最澄は比叡山を下賜承わった。

また白河天皇を始めとする天皇が譲位後に出家し、法皇と名乗る事も多くなる。

その後、江戸時代までは仏教とも深く繋がっており、法事は仏式で行われていた。

1871年(明治4年)までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。

天皇や皇族の位牌は「尊牌」と称された。

しかし、明治時代に入ると明治政府の神道重視の政策により廃仏毀釈が行われ、1000年以上続いた仏式の行事はすべて停止され、尊牌は京都の泉涌寺にまとめられ、皇室は仏教とは疎遠となる。

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