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毒の歴史 - Wikipedia
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毒の歴史
毒の歴史では、毒[1]に関連する歴史を記述する。今日から紀元前4500年にまで遡ることができる。
概要[編集]
毒は武器や、毒そのものの解毒、そして薬など様々な目的で用いられ、毒性学(トキシコロジー)やその他さまざまの学問において飛躍的な進化を遂げてきた。
発見されたのは太古の昔であり、原始においても文明化ののちにも獲物や敵を素早く確実に倒すための道具として使用された。
毒の用法は洗練されていき、古代人たちは武器としての威力を高めるため毒と関わりつづけてきた。
歴史が下り、特にローマ帝国の時代がくると、暗殺というさらに今日的な使い方が現れるようになる。
すでに紀元前331年ごろにはディナーテーブルの飲み物にしのばされた毒がその役目を果たしたことが記録されているし、同様の試みはすでに広くなされるようになっていた。
この致死性の物質を使うことは、あらゆる社会階層においてみられる。
身分の高い人々であっても、目障りな政敵や商売敵を亡き者にするため、しばしば毒を用いてきたのである。
中世ヨーロッパで毒は、殺人術の一つとしてさらに一般的になっていった。
一方でよく知られた毒の多くに解毒の方法が見つかるようになるが、これは毒の有用性がさらに高まったことを受けてのものである。
アポセカリーとして知られる商家では毒だけでなく様々な医薬品を扱っていて、表通りに店を構えているのが普通だった。
伝統的に薬としても使われていたこの物質は、しかしより陰惨な目的も持ち始めていたのだ。
おそらく同時期に、世界の他の地域でも暗殺をより不透明なものにし、検出されないようにする毒物が求められていた。
この「毒の叙事詩」はアジアの一部でもやはり隆盛をきわめていたのである。
世紀が変わっても、人の道を外れたような、誰かに危害を加えるための毒の使用は広まる一方だった。
これらの解毒方法もまた進化していたのだが、新たな毒物の発見は止まらず、犯罪に常用されていくのである。
今日では有害物質による毒殺はその数を減らしてはいるが、工業製品に囲まれた日々のなかで毒による事故という新たな危険が生まれている。
いってみれば毒を使うことそれ自体は累乗的に広まったということだ。
農薬や消毒薬、洗剤、保存剤などの形で毒はどこにでも存在している。
他方、発展途上国ではいまもなお毒が狩猟の道具という最初期の使われ方をしている。
例えば、アフリカや南アメリカ、アジアなどの一部である。
毒の起源[編集]
Strychnos toxiferaはマチン科の植物。
抽出される毒はしばしば矢じりに塗られた
考古学の成果によれば、原始人たちは斧や棍棒、すこし時代が下って剣を武器にするとともに、それらをより強力にし容易く命を奪うことができるようにする方法を求めていた。
その答えが毒であった[2]。
ツボクラリン(ツヅラフジ科の植物の浸出液で、毒性を含んでいる)を蓄えもっておくような賢い人間たちはそれを狩りの道具として活用していた。
初期のヒトが様々な効果をもつ毒を発見し、それを武器としていたことは明らかである[2]。
この奇妙なる毒物の存在とその使用法は部族や氏族の長老たちによって秘蔵され、偉大な力の象徴とみなされていたという考え方もある[誰によって?]。
それは典型的な「呪医」(medicine man) や「魔女」(witch doctor) という概念の誕生でもあった[2]。
毒の危険性とその扱い方が理解されるようになったのは、その危うさを味わった人間がいるからでもある。
ポントス[3]に君臨したミトリダテス4世は毒による暗殺に怯えながら一生を過ごした。
彼は解毒の方法を求めて奔走した先駆者でもある[2]。
在位中のミトリダテス4世は死刑囚に毒を盛りつつ解毒薬の治験を行い、自分があらゆる毒への耐性をえることができるよう、なかば偏執的なまでに毎日いくつもの毒を試みた[2]。
ついに彼はわずかな量のハーブをいくつも調合することでこの時代もっとも有名になった治療薬を発見しており、ミトリダティウム (Mithridatium) と名づけられた[2]。
それは彼の王国がローマのグナエウス・ポンペイウスによって征服されるまで極秘の扱いを受けていた。
ポンペイウスが勝利すると、ミトリダテス王の解毒薬の製法、および薬草の研究書はローマ人のものとなった[4]。
小プリニウスは7000以上もの毒について記述している。彼によれば、「ポントスの一地方で毒入りの餌を与えられていたとおぼしきアヒルの血、それが後にミトリダティウムの調製に用いられた。
なぜならそのアヒルは毒入りの餌を食んでも、まったく健康であったのだ」[2]。
インドの外科医ススルタは遅効性の毒のまわり方とその治療薬について書き残しているが、やはり毒を返すための伝統的な素材を用いたこの解毒薬について語っている[5]。
インド[編集]
毒を塗った武器は古代インドで用いられ、戦術にも取り入れられた[6]。
サンスクリット語の詩行にこんなものがある。
「井戸には毒が流され、汚されたJalam visravayet sarmavamavisravyam ca dusayet」[6] カウティリヤ(紀元前350年-283年頃)は、マウリヤ朝初代チャンドラグプタ王(紀元前340年-293年頃)の相談役であり首相でもあった[7]。
カウティリヤは国益を得るために秘密の武器、すなわち毒をつかうよう王に誘いかけた[8]。
一方で彼は暗殺への警戒も怠ることなく、毒見役の設置を急ぎ、毒を検出するための方法も洗練させた[9]。
さらに王命に逆らったものへもしばしば毒をもって死刑とした[10]。
狩りにもちいられた石剣や石槍
エジプト[編集]
他の文明と異なり、エジプトでは毒の使用およびその知識についてほとんど記録がされておらず、紀元前300年ごろと推定される史料までしか遡ることができない。
しかし最初期の有名なエジプトのファラオ、メネス王が毒性のある植物や毒液の分析を進めていたと考えられる記録もある[2]。
紀元前350年ごろの王ナクタネボ2世の治世の時代に、神官エサトゥムが彫ったといわれている石碑が現存している。
メッテルニヒ碑文もしくは魔術碑文といわれている。人々が病気の治癒の相談にやってくる神殿に石碑を建てたといわれている。
この聖なる石碑に刻まれた呪文を読みながら、石碑に注がれる聖水を飲み治療したと推測される。
しかしその後のプトレマイオス朝エジプトでは毒に関する知見が存在したという証拠が、古代の錬金術師アガトダイモン(おそらく紀元前100年ごろ)の著作にみつかる。
彼はある種の鉱物とナトロン(ソーダ石)が混ざると「猛毒」が生み出される、と語っているのだ。
この毒は、すっきりした解決を与えてくれる「水没 (disappearing in water)」と表現されている[11]。
エムズレーはこの「猛毒」が三酸化砒素ではないかとし、この正体不明の鉱物が鶏冠石か石黄と結びついたためだと推測している[11]。
エジプト人には、アンチモン、銅、鉛、天然の砒素、アヘン、さらにはマンドレイクといった素材への知識も継承されていたと考えられている。
他にもこのような秘密がパピルスには蔵されている。はじめて毒を高度に抽出し、巧みに操ったのはエジプト人だといまでは考えられている。
それは桃の種から取り出されたものだった[2]。
そしてついにクレオパトラの時代が訪れる。
彼女はアントニウスの訃報を耳にし、エジプトコブラの毒で死ぬことを選んだといわれている。
その死に先立って、彼女はまるでハツカネズミのように何人もの下女たちにベラドンナやヒヨス、ストリキニーネの木の種などいくつもの毒を試したと伝えられている[12]。
ローマ[編集]
ローマの皇帝ネロの胸像。
彼は気に入らない人間を排除するために青酸カリをもちいていた
ローマでの毒殺は晩餐の席や公共の飲食スペースなどで実行され、紀元前331年にはすでに確認されている[2]。
こういった毒殺は、社会のあらゆる階層で私利私欲のためにひろく行われた。
リウィウスはローマの上流階級や貴族たちのうちで毒殺された人間を記録している。
ローマの皇帝ネロも側近に毒を与えるのを好んでいたことで有名で、私設の毒殺者さえ置いていたという。
お気に入りの毒はシアン化物だったといわれている[2]。
ネロの先帝であるクラウデイゥスは毒キノコかそれに代わる毒草で暗殺されたという説があり、その死因については議論がわかれている[13]。
彼の毒見役であったハロタス、侍医であったクセノフォン、悪名高い毒殺者ロクスタ、この3人全員が暗殺につかわれた死の薬に関わったといわれている。
しかしクラウディウスの最後の妻であったアグリッピナこそが疑惑の中心人物とされており、おそらくは彼女自身が毒を調製したのだという。
一説では、夕食を一口啜ったクラウディウスは延々と苦しんだのちに死んだ。
またその場では何とか一命を取りとめたという者もいる。
それによれば、毒を吐き出そうとするのを助ける風を装うアグリッピナに、毒に浸された羽毛を喉に押し込まれて殺されたのだという[14]。
また毒を盛られたのは、夕餉の皿だとも浣腸器だともいわれている or by poisoned gruel or an enema.[13]。
ネロを寵愛していたアグリッピナは息子を帝位につかせようという野心を抱いており、クラウディウスにその陰謀を疑われたために彼を毒殺したと考えられている[15]。
中世[編集]
時代が下った中世ヨーロッパでは毒の性質が知られ、それが単なる魔法や奇跡ではないことが理解されるようになると、薬と毒を販売し供給するアポセカリーと呼ばれる商店が現れた[16]。
毒のもつ医学的な側面はほとんど知られていなかったのだが、そのあまり実用的ではなく合法的でもない目的から人々は公然と毒を買い求めたのだった。
それらアポセカリーで働く錬金術師たちは直に毒を扱わざるをえず、いつ健康を損なうかもしれない危うさのなかで仕事をしていた。
この頃には世界中で毒を扱う技術が進んでおり、たとえばアラブ世界では飲み物に入れた砒素を透明化し無味無臭にすることに成功しており、この手法を用いた暗殺者たちの毒は、発見する側の科学の未発達もあり、少なくとも100年間は検出されないままだったとされている[17]。
チョーサーの「カンタベリー物語」は14世紀から15世紀に書かれたとされるテクストだが、このアポセカリーから害獣駆除だといって毒を買い求める殺人者の話がでてくる。
And forth he goes no longer he would tarry
Into the town unto a ‘pothecary
And prayed him that he woulde sell
Some poison, that he might his rattes quell…
The ‘pothecary answered: "And thou shalt have
A thing that, all so God my soule save,
In all this world there is no creature
That ate or drunk has of this confiture
Not but the montance of a corn of wheat
That he ne shall his life anon forlete.
Yea, starve (die) he shall, and that in lesse while
Than thou wilt go a pace but not a mile
The poison is so strong and violent
カンタベリー物語 免罪符売りの話. Lines 565 581.
この引用は毒に言及した文学作品の例である。
毒と薬はフィクションのなかでは非常に普遍的なテーマであって、例えばシェイクスピアにもそれは当てはまる。
また学術的テクストでもこのテーマを論じたものがある。
フィクション、ノンフィクションに関わらず、その多くは僧侶によって書かれたものだった。
当時の僧侶は一流の知識人でもあり、このテーマで出版されたものの大部分が彼らの手による[16]。
ノンフィクションの著作の一例として、「毒の本The Book of Venoms」がある。
これは当時有名だった毒の効能と使用法について記したもので、1424年にMagister Santes de Ardoynisによって書かれた。
この本はその毒について最も知られるところとなる処方を記したものとも評されていた。
とはいえこの実際的な本は出版されることがなく、研究のためにとあるサークル内に留めおかれていたと推測されている[16]。
大衆の反応[編集]
真理が大衆から遠ざけられたままであれば、眼をそむけたくなるような毒の使い方についての民話や噂が広まることは防ぎようがない。
当時、イギリスをはじめとしたヨーロッパには毒への妄想症が蔓延した[16]。
適量をひそかに調製したなら致死性をもつであろうその「薬効」が周知の事実となったことにも後押しされ、毒への関心はうねりとなってひろがったのである。
毒をつかえばたやすく殺人が行える上、痕跡が残りにくく人目につかないため、大抵その犯罪は気づかれずに済む[16]。
おそらくこの妄想症の大波は巷の話題を独占したのだが、大衆が毒素に対する対策を求めても、それに関する本は不安を煽るだけか完全に間違っていたりしたことも背景にはあるのだろう[16]。
当然ながら冴えた書店員はこの問題を本を売るための「手」にし、人々がありもしない安全策をもとめて本を買うために危険を誇張した。
宝石商なども毒素を弱めるアミュレットを販売し、傷薬を扱う医師は当時この疑惑によって大きな利益を得た。
大衆が待ち焦がれていた情報は結局学徒と科学者だけのものであり、一般人はその妄想を確かめることができないままだったのである[16]。
中世ペルシア・インド[編集]
ペルシア生まれのアル・ラーズィー(ラゼス)の著した「秘中の秘Secret of Secrets」に塩化水銀(II)(corrosive sublimate 和訳は昇汞水)を発見する糸口をつかんでもいる。
これに由来する軟膏は、現在では疥癬と呼ばれるところの「痒み」とアル・ラーズィーが表現した症状を緩和するために用いられた。
この軟膏は効果的であった。
水銀の毒は肌に浸透し、痛みと痒みを消し去ることができたからである[18]。
インドでは14世紀から15世紀にかけてラージャスターンに内乱を抱えていた。
そこはラージプートの本拠地であったのである。
そしてラージプートの女性たちは、息子、兄弟、夫が戦死したならば、自ら毒によってjauhar(文字通りに「命を奪う」)を行う習わしを持っていた。
jauharはクシャトリヤという武人階級の間で行われていたもので、侵略者のもとでの従属や隷従、強姦、殺人という不幸を拒むためのものであった[19]。
ルネサンス期[編集]
ルネサンス期ごろには、違法かつ卑劣な目的で毒をもちいることが隆盛を極めていた。
それが人殺しや暗殺者に必須の道具となっていたことは間違いない[20]。
犯罪結社などで毒がそれだけの人気を得たのは、毒そのものに新たな発見がされ続けていたことにも理由がある[20]。
14世紀から15世紀に生きたイタリアのある錬金術師は、毒性をもった物質をかけ合わせることで同じものを増量するよりもはるかに強い効果を生みだすことに気づいていた[20]。
学問としての体系も整えられ、今日毒性学として知られるものに近づいていく。
こうして人を殺すための手段として毒は社会に根付いていき、夜会に訪れる人間は、主賓あるいは客の誰かが食事に毒を盛りはしないかと恐れるようになったのである[20]。